10/7スパーク本② ポエム

【原石】

阿吽の呼吸というのはこういうこというのだろうかと、その背中を見ながら考えていた。黒尽くめの男はまるで静止した的でも撃ち抜くかのように障害物を破壊し、邪魔者の膝を折る。俺はその隣をすり抜け、眩いばかりの宝を手に入れる。最初のうちは次元が手当たり次第に頭を撃ち抜くのに困ったが、どうすれば殺さずに済むか、ポイントだけ教えてやればすぐに熟した。

「あれでいいのか?」

薄汚い路地裏で、追手の男が撃ち抜かれた腿を突かんで呻いているのを見ながら、次元が不思議そうに俺に尋ねた。

「あれくらいじゃ死なねえ。また追って来るぜ」

そう言って撃鉄に指をかける。

「いいんだよ。お前は俺の言うことだけ聞いてな」

俺が踵を返せば、後ろを気にしながらも銃を収め黙って後をついて来た。仕事中は、いつも従順な男だった。

 

アジトにしている俺のマンションのリビングで金を分けている時、次元は人形のように俯いて壁際に立っていた。

「なあ、今度飲みにでもいかないか? 仕事の話の前にでもさ」

紙に包んだ報酬の札束を差し出して、警戒されないように聞いてみる。

「時給が発生するってんなら、いい」

無感情に言い、帽子の影から少し瞳をのぞかせる。冗談で言ったわけではなさそうだった。お前と居るには金がいるってことか。

「まるで夜の女だな。いいぜ、いくら払えばいい?」

俺が言い終わらないうちに、次元は玄関へ向かう。そして何も言わず出て行った。俺もリビングへ戻り、ジタンに火をつけた。そして今日、次元と盗んできたサファイアを懐から取り出し、明かりに透かす。随分と今日もやりやすかった。というのも、次元にバックアップを任せたおかげだった。欲しい、と俺のエゴが鳴くのを感じる。あの銃の腕に該当する傍にあれば、いくらでも俺の可能性を広げてくれる。出会った時から、そう感じ続けていた。

次元が銃を構えて撃つ姿は、珍しく俺の目を引くものだった。鉄骨の入った彫像のように、体の芯を据えて背筋が伸びる。ガンフラッシュの瞬く時、目は光線のように着弾点を見つめる。反動にさえ身体に溶かし、微動だにせず六発を撃ち放った姿には人間離れした圧力があった。銃の神様というものがあるなら、きっとこいつがそれだった。

初めて次元を目にした時、路地裏で三人の輩に絡まれていた。俺はいつものように無視して脇を通り過ぎようとした。刹那、コンマを置かず三度銃が放たれた。ほんの1秒とかからず、次元は三つの心臓を撃ち抜いた。闇の世界は広いが、ここまで早撃ちのできる男を、初めて目にした瞬間だった。たまたま目にした惨劇の後、俺はすぐに名前を調べて仕事を頼んだ。警戒はされたが、金を渡せば拒否はしなかった。

それから、俺は仕事がある度に誘いをかけた。売れっ子だと情報屋から聞かされていたこともあって、殺し屋の仕事の切れ目を狙った。何度か仕事をしたが、次元は仕事以上の接触を避けていた。ならばいずれ避けられないようにしてやればいい。そう思いながら、サファイアを床に捨てて次の計画を練り始めた。

 

 

【距離】

地上の宝石店から徒歩で逃げたビルの屋上。ここからは黒い翼のハンググライダーで街はずれまで逃げる手筈だった。俺がグライダーの羽を広げる横で、帽子を目深に被った男が王冠を抱えてしゃがみ込む。金の王冠にはめ込まれたエメラルドを指先でなぞりながら、何故か匂いを嗅ぐ。二人分のスペースがあるそれを組み立て終わり、良い風が来るのを待った。地方都市の局地的な輝きの奥にある、静寂な闇を4つの瞳で見つめていた。

「今回の作戦もバッチリだったなあ、次元?」

「ああ。とはいえ、さっきのは無茶振りが過ぎたぜ」

つい数分前。宝を手にした俺が逃げようと振り返った時、背後にナイフを感じた。

『次元!』

俺は咄嗟に助けを求めた。奴から見れば俺と輩はほぼ身体を重ねていただろうに、次元はビリヤードのように跳弾で俺の背後にあった頭をぶち抜いてみせた。

「お前なら出来ると思ってさ。とはいえ殺すこたあなかたっぜ」

「…俺がやってなきゃお前は死んでたんだぞ」

次元はそう言って呆れた顔をして、膝で頬杖をつく。殺しがダメだとは、俺も思わない。だがそれは自分のために奪う時だけだ。

俺のために誰かを殺してくれと仕事を頼んだ覚えはないのだが、こいつはそれを理解できないらしい。

「お前が少し脅かしてくれれば、なんとでもしてやるさ」

「ケッ、大した自信だな」

悪態を聞き流して煙草に火をつけ、生温い風に流す。隣でも同じように煙草の煙をくゆらせる。

「逆にお前は自信がなさ過ぎるんだよ。俺はお前のその右腕がありゃあ、何でもできると思ってるんだぜ」

言いながら吸い殻を地面に落とし、靴底で踏み消す。俯いた次元は興味のなさそうな顔をしていた。

「あんまりハードルを上げるなよ。怪我するのはお前だぜ」

「お前に越えられないハードルがある時は、潜り方を教えてやるよ」

「ズルじゃねえか」

珍しく、ほんの少しだけ笑いながら俺を見る。その時、俺の顔を見て何かに気づいたように睫毛を上げた。

「さっき、掠っちまったんじゃねえか」

言いながら自分の頬を指の背で撫でる。鏡写しに同じ仕草をすると、何かが張り付いていた。なんてことはない、そこには返り血の飛沫が乾いて貼り付いているだけだった。俺の血じゃないよと舐めた指先で擦り消す。次元は何か言いたげにした後、俺に冠を返した。受け取って、懐に隠すには大きなそれを自分の頭に被せた。

「似合うぜ」

次元は俺を見て、そう称賛した。最近、少しずつ口を開くようになった。最初は人形かと思うほど無感情だったが、仕事を重ねる度に人らしさを増していく。あと何度仕事をすれば、俺に心を開くだろうか。

「珍しいね。褒めてくれんだ」

「ああ。お前みたいな暴君にぴったりだ」

最後に砂をかけるように言い、強風に帽子を抑えた。

行くか」

「ああ」

ハングライダーの手すりを掴ませて、思いのほか細い腰に手を通す。

「つうかよ、もうちっとマシなもんはなかったのかよ」

背中に張り付かれるのが気色悪いのか、げんなりとした声を出す。

「贅沢言うなって。俺様だって男抱く趣味なんかねーっての」

趣味はないが、下心はあった。俺と触れ合えるほど、信用しているかを知りたかった。一番手っ取り早くて、二人で逃げるには確実だと理由はオマケだ。腹の前に手を通すと、嫌なのか少し身じろいだ。それでも拒否はしない。ハーネスがわりのベルトで二つの腰を巻きつけて固定し、俺がビルの縁を蹴る。男二人分の体重にガクンと羽が軋む。それでも風に乗り、闇深い地平線へ向かい始めた。

地上を流れて行く車のフロントライト、時折赤と青の光が俺達を探して町中をうろついているのを見ながら、頭に被せた王冠が外れないよう深く被せ直す。

「おい」

「なーに」

「それ、どうすんだ。売っぱらうのか」

それ、と自分の帽子を叩いて王冠を示す。

「んーこういう手合いのもんは足がつくからなぁ。リビングの飾りにでもするさ」

「俺の報酬はどうなる。言っとくが前金は前金だからな」

「そのうち渡すさ、今はちょっと手持ちが足りねえ」

俺が何気なく言うと、途端に触れ合ったところから殺気が滲み出て来るのが分かった。

「ふざけんな、この詐欺師野郎!」

目を釣り上げて怒り、ゴツリとマグナムを俺の顎に押し当てる。

「うわ、バカ、俺が死んだら誰がお前に報酬渡すんだよ」

それに今俺を殺したらお前も死ぬぜ、と遥か下を指差す。そうすれば、口をへの字に曲げた納得していない顔で銃口を外した。普段は物静かなくせに、こういうときだけ突然凶暴になる。かと思えば、聞き分けがいい。性格まで銃みたいだと思いながら、傾いた翼の角度を元に戻した。

目的地へ向かうまでの途中、次元は時折鼻で深く息をしていた。息苦しいのかと聞いたが、違うという。変なやつ、とだけ思った。目印にしていたオレンジ色の街頭が見えたところで、俺達を繋いでいたベルトを外した。グライダーの手すりを片手に掴み、男の脇の下に腕を引っ掛けて緩く落ちて行く。俺も痩せ型でさほど体重はないが、こいつはそれより軽かった。こんな骨と皮しかないようなガリガリの身体で、よくコンバットマグナムなんて反動の重い銃を撃てるものだ。そんなことを思いながら手すりを放し、木々の枝をクッションにして着地した後、怪我はないかと各々身体を叩いた。

「あ」

道路に出た時、次元が俺を見て声をあげた。

「エメラルド、取れちまってるぞ」

「うそォ。ありゃ、ほんとだ」

ぽっかりと空いた王冠の穴に指を通す。でもまあ、いいか。

「なくなっちまったもんは仕方ねえ」

俺が未練なくそう言うと、次元は少し驚いていた。きっと俺が宝のためだけに盗みをしているとでも思っていたのだろう。

「今日お前と感じたスリルが、俺にとっては値打ちもんだからな」

今までは組んだ仲間には、そう思われてもわざわざ訂正することはなかった。だが、今後付き合いの長くありたい男には、俺の本心を伝えても良かった。

「…そうかい」

次元は一度俺の顔を見てから、顔を背けた。呆れているようにも見えたが、何かに委縮しているかのようにも見える。読めない奴だと思いながら、少し近づいて声をかける。

「お前も楽しかったろ? また一緒にやろうぜ」

「支払いの遅れるクライアントとは仕事しねえ主義だ」

そんなことを話しながら、目的地のモーテルへ向かって、夜を歩き出した。

 

真夜中の古びたモーテルの、二つあるうちのシングルソファーで俺は王冠を裸に剥いていた。

「ダイヤの小粒が百ちょっとにルビーにとサファイアが二十ずつか」

王冠から剥ぎ取った宝石の屑を、二人分に分ける。あのエメラルドがなければ、この王冠に大した価値はない。どこで落としたかも分からないなら、バラしてしまうしかなかった。

「ほらよ。これで支払いは間に合っただろ」

骨になった王冠を床に置き、向かいの二人がけのソファーに座っていた男の横に立った。

「きっかり半分だぜ」

掌に掬った光の欠片を差し出す。拳銃だこを赤くした手が、戸惑いがちに固そうな掌を見せる。零すように落として渡してやると、次元は戸惑っていた。

「少なかったか?」

俺が尋ねると、違うとつぶやいて宝石を親指で何度か撫でて転がした。

「こんなもん、どこで金にするんだ」

「ああ、現物は初めてだっけ」

泥棒ビギナーのこいつのために、今までは現ナマに変えてから渡していたのだった。

「こういう手合いのもんは、質屋に流しちまうんだ。もちろん普通の質屋じゃねえぜ。たとえば4丁目の先の…」

事細かに、俺が知っている店の使い方を教えてやる。次元は酒を飲みながらそれを黙って聞いていた。

「明日一緒に行って、やり方を見せてやるよ」

乾杯も言わず次元が一人でワインをひと瓶空けた頃、さらりと言う。俺達の契約は今日までだった。だが、今日が終わっても離したくなかった。次元大介という男には俺の相棒にふさわしい腕と呼吸がある。背中を任せられるようになれば、俺の仕事の幅は限界を忘れるだろう。ビジネスライクにプライベートを分けても良かったが、こいつは隣にいて最大限役に立つ。懐にいつもあるこのワルサーと同じように。 

授業料は払わねえぞ」

次元はそう言って、テーブルの上にあった新しいワインボトルを取る。俺の分のグラスはなかった。

「かまわないさ。その代わり、俺とも乾杯しようぜ」

俺は栓抜きを手にして、掌を差し出した。次元は俺が栓抜きを渡す気がないことを黒い目で悟って、ため息をつきながらボトルを差し出した。俺はグラスをキッチンから持ち出して、波々と注いだ。そのグラスを差し出せば、節くれた血色の悪い指がガラスの柄を摘んで受け取る。

「お前と俺を祝して」

「勝手に祝すな」

グラスを突き合わせようとしたが、避けられて零した。

【唐突】

あいつは最初から、突然やって来た。

俺の腕を見たと言い、行きつけにしていたバーで仕事を頼むとあいつは俺に金を差し出した。無駄におしゃべりで、凛とした覇気がある。俺よりも若いくせに、上から目線で話す。異様なほどで自信家で、人をからかって遊ぶ。絶対に合わないであろうという思いとは裏腹に、仕事中は不思議と息が合った。

あいつが邪魔だと思うものは俺にも邪魔で、俺が厄介だと思うものはあいつにとっても厄介だった。だから俺が邪魔だと思えば迷わず撃てたし、厄介だとあいつが思うであろうことは躊躇いなく先回りして撃った。たまに先回りが過ぎると、あいつは俺をいさめた。

「ちょっとばかし、気ぃ利かせ過ぎだ」

俺を狙う輩全部を殺さなくていい、あいつはそう言った。俺を何だと思って仕事に誘ってきたのかと、首を傾げても尋ねることはしなかった。基本的に俺はどんな仕事でも、報酬が見合えば受けてきた。今までのクライアントでも、俺を曲芸師扱いして的当てなんかをやらせた奴らがいた。それの類いだろうとしか、思わなかった。生きていけるだけの金と余暇。それ以上を望んだことはなかった。

 

ある時、本場のチャイニーズマフィアから札束をくすねた。ポーターの皮のボストンバッグを開け、札束を二人で放り込み、脚で踏み込み押し込む。ジッパーが締め切らず、札を噛み込むまで俺は詰め込み、あいつはボタボタと札束が溢れても笑って走り出した。俺もそれにつられて頬が緩んだ。

一人では持ちきれないその鞄を二人で手に持ったまま、俺は銃を放つ。あいつは藪の中に隠したシボレーの後部座席へ、火事場の馬鹿力みたいなもので鞄を放り投げる。石壁の屋敷から逃げ出し、ハいうェイまでの道を目指す。助手席から後ろを振り返ると、吊り上がった目のようなライトがは見えた。

「まーだ追って来やがんのか」

あいつが口を開き、目の端で俺を見る。それは蹴散らせという合図だった。相槌の代わりに、窓から身を乗り出し、車の振動でブレるマグナムの照準を俺の身体の芯に合わせる。

「上手にな」

「わかってる」

殺すなと言いたいんだろう。

俺が撃った弾丸は次々と車をスピンさせていった。まずは三台。それでも残りの車は獰猛に追いかけて来る。

「しつけえなあ」

「この金でシマ広げようとしてたんだ、必死にもなるだろうさ」

リロードの途中で返答を返す。スピードローダーを使うまでもない。一つ一つ確実に弾を込め、再度構える。

「んは、世界で四番目の敷地広げててもまだ足りねえってか」

「それでも狭いんだろうぜ、なんせ人が多いからよ」

下らないやり取りをしながら、俺は残りの二台確実に仕留める為、息を止めた。無暗に殺すなというあいつの言いつけを守り、タイヤにだけ食らわせるのも一苦労だ。運転手の頭をぶち抜いた方が今もこの後もよっぽど簡単だというのに。そう思って近づいて来る車の運転手の額へ、悪戯に照準を合わせる。すると残りの一台が恐れ慄いたのか車を急に停めた。そして窓から身を乗り出し、何やら大声で叫んでいた。運転席のミラーをぶち抜いてやれば、慌てて頭を引っ込め車を回転させる。

「次元ちゃん、仲間外れも可哀想だしやったげれば?」

「ああ」

最後の1発で後輪の空気を破裂させてやる。こんな風に殺意なく撃つのには、あまり慣れていない。よくこんな撃ち方を俺に教えたものだ。そして俺も、よく出来たものだ。俺はこのことに何度も驚いた。停まった車の影が見えなくなるまで視線を外さず、さらなる追っ手がないのを確認してから助手席に腰を据えた。

「おー痛え。流石に撃ち過ぎた」

痺れる右手を振り、左手で灰皿の燃えさしに手を伸ばす。今夜だけで何発撃ったか覚えていない。殺し屋の仕事の時は、一人一発で済んでいた。こいつとの仕事の時は、殺さないために人一人に三発は使っていた。

「お疲れさん。せっかくなら新しいの吸えよ」

「切らしてんだ」

「知ってるよ」

懐から出した紙箱から、真っ白な煙草を取り出して俺に咥えさせる。俺は素直に差し出されたジッポに顔を寄せ、火を吸い込んだ。

いつもはクセが強くて吸う気になれないジタンだが、この時だけはこのクセが脳を痺れさせる気がする。あいつのムスク系のオーデコロンと、体臭の棘のある香りと相まって、身体中に深く染み込む。チカチカと目が霞むようで、俺は二度強く瞬きをした。まだ慣れていない。初めて煙草を吸った時のような、刺激の強さに脳が眩む感覚だった。

「俺様にもちょーだい」

そう言ってわざわざ箱を差し出す。片手でも出来るくせにと思いながら、咥えさせて火をつけてやった。

「ん、次元ちゃんにつけてもらうと格別だな」

その次元ちゃんってのはやめろ」

満足そうに八重歯に挟んでハンドルを握る男を見ながら、一つだけ不満を漏らす。

「ええ、どうして。別にいいじゃん」

「痒いんだよ。そんな風に呼ばれたこと、ねえから」

こいつはいつでも馴れ馴れしい。勝手に俺を近しい存在として呼ぶ。それが俺にはたまらなく痒かった。

「照れてんだ、かーわいいなあ次元ちゃん」

「チッ」

更々やめる気がない返答に舌打ちで返す。そうこうしているうちに奴らの領土を抜け、明るく清潔な通りに出て来た。

「ここまで来りゃ大丈夫だな」

窓に流れる景色の流れが緩やかになり、俺達の車はその他大勢の車に紛れた。窓を開けて肘をかけると、下水の匂いが漂って来るのを感じる。それは揺かごのように、俺の精神を落ち着かせた。

「さあて、どこに泊まる? これだけありゃどんなスウィートでもしばらく泊まれるぜ」

そう言って乱立するビル群を眺める。上質な皮のソファーがあるホテルがいいとだけリクエストすると、あいつは笑った。

「欲のねえこと。飛び切りのいい女が寝てるベッドって言や用意してやるってのによ」

「そりゃあお前さんの希望だろ。俺は一人でゆっくり寝たいんだ」

札束枕にな、と吸いきった煙草を燃えさしの山に擦り付ける。そいつは同感とあいつは返し、一番高いビルへと車を走らせた。あいつは適当に選んだと言っていたが、俺が入った部屋には俺が好きなブランドのソファーが置いてあった。

「お前もここに泊まるのかよ」

「別にいいだろ。部屋だって違うしよ」

キーは二つあるというのに、あいつは祝いと言って俺の部屋で勝手にルームサービスを頼み、勝手に乾杯をする。酔いと疲労と、仕事を終えた充足感に耐えかねて、柔らかく、かつ沈み過ぎないソファーの上に寝転がる。それでもあいつがふと立ち上がったとき、俺はグリップを握っていた。

「そんなに警戒すんなよ。お前の取り分を分けてやるだけだって」

あいつは酔った顔で微笑みながら腕に抱えた札束を空中に巻き上げた。世界一贅沢な布団だと、横たえた俺の身体に紙束を撒き散らしたのだ。そして俺のグラスに酒を注ごうとしたが、よっぽど酔っているのかボタボタと溢して俺の身体の上の札束を濡らした。

「ほら、お前が飲まないから酒の方から飛び込んじまったぜ」

その様子がおかしくて、つい笑いながら、毛沢東まで酔わせてどうすると溢れた杯を受け取って、直ぐ空にした。

それから先、何の話をしたかところどころ覚えていない。きっと覚えておく必要のない程度のものだったか、俺はどんな事を言われようと頭に響かないほど酔っていたのかもしれない。

『だからさあ、俺のところにしばらくいろって。殺し屋よりよっぽど楽に稼がせてやるぜ』

あいつがふざけて肩を抱いて来た時、そんな事を言ったことだけは覚えている。俺がそれにどう答えたかは、もう覚えていない。ただ、触れられて拒否しなかった自分に驚いたことは覚えていた。それはあいつに気を許してしまった、証拠だった。

翌朝、俺は酷い二日酔いになりながら、広いトイレで半日を過ごした。あいつはとっくに自分の部屋に帰ってしまっていた。

また、俺の悪い癖が出た。頭の割れるような二日酔いの中思う。すぐ他人に油断して、騙される癖。俺はどうしてもこの癖が直らなかった。誰かと一緒にいるなんてリスキーな時間が長引く度、この癖は必ず出た。戻れるうちに離れよう。吐き気の収まらぬまま、俺は酒臭い札束を床から掻き集める。そしてベッド下に用意していた旅行鞄に放り込み、ホテルを出た。

またあいつは俺を誘うだろうか。次はもう、断らなければダメだ。

そう決めた一ヶ月後に、あいつはまたやって来た。用心棒の仕事が終わりを迎えた夜の帰り道、薄汚れた壁に背をつけて待っていた。

「次元大介を予約したいんだけど」

そんなことを言いながら、いつものように長く白い掌で金を差し出す。ごめんだと突き返すと、何故と返された。そうだ、まだ特別仕事を断るような理由はない。今は金があると答えて通り過ぎようとしたが、あいつは後を追って来た。

「ならとびきりのスリルでもどう?」

「要らねえよ、そんなもの」

「じゃ、何が欲しい? 仕事が終わるまでに考えておいてくれれば、準備しておくぜ」

結局、あいつは勝手に金を俺に差し込んで去っていった。返しに行った先で俺はやはり仕事を断りきれずに終わった。

「お前が必要なんだよ。他の奴じゃ、絶対ダメだ」

あいつの最後の言葉に、俺はいつも負けてしまった。あいつと話していると、いつの間にか丸め込まれてしまう。口で勝てない相手だとわかっていたが、逃げ出すのはプライドが邪魔してできなかった。罠にかかりにいっているようなものだと思いながらも、何故か。

その理由には、まだ気づきたくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【愚鈍】

ニューヨークの路地裏は世界中の汚濁を掻き集めたようだった。溢れる塵芥、それに劣らず汚いホームレスと野良の動物達。この生臭い匂いを嗅ぐと、帰って来たと感じた。深夜、ふらふらと酒を求めて俺は歩いていた。久しぶりに訪れてみたら、馴染みの店が三軒も潰れていたからだ。

ふと赤い扉を入り口にした店を見かけ、俺は吸い込まれるように中に入った。平日の夜中のせいか、客はちらほらと散って座る程度だった。俺はカウンターの隅の席に座り、バーボンのストレートと口にしてから煙草の火をつけた。錆色の光が壁に飾られたウィスキーボトルを照らすいい店だった。ちびりちびりと酒を飲みながら、昨日のことを思い出す。

新しい仕事だとあいつが持って来たのは、この国の銀行から一千万ドルを盗むという大仕事だった。日和ったわけではないが、俺は心臓がばくばくと暴れ落ち着かないのに耐えかねていた。その上仕事が終わるまでは一緒にいる契約だとあいつが帰らないせいもあり、雨の降りそうななか根城にしているマンションを出てきていた。

『お前とならできる』

そう迷いなく言い切る男の横顔が浮かぶ。ギラギラと水分の張った目と、自信に溢れた唇の歪みが、頼もしいものなのか狂気なのか、判断がつかなかった。そして驚きながらも興奮した俺の心臓は、完全に狂っていた。だから、拒否をするという判断がつかなかった。

長い現実でないと知りつつも、朝方に見る良い夢の続きを見たがるように、もう少しだけこいつと仕事がしたいと思った。気の迷いもいいところだった。いつも早く終わればいいと思って熟してきた殺し屋や用心棒の仕事とは、まったく違う興奮があることを知ってしまったからかもしれない。

喉に染みる1杯目のグラスを空にする頃、二人組の男が入って来た。

次元、次元じゃねえか。いつこっちに戻って来たんだ?

ゴロツキ風の男は、昔いた組織のチンピラだった。組織は警察に取り潰されたが、それでもしぶとく生きていたらしい。

兄弟揃って酒を飲みに来るとは、仲は変わらずいいようだとどこか癒された。

先週こっちに来たと伝えると、一人かと返された。

いいや、とだけ答えれば、兄の方が眉を寄せた。

ルパンとかいう男と、本当に一緒なのか。

お前がコソ泥になる日が来るとはな、と侮蔑を隠さずぶつけられる。

弟が見兼ねて、俺達だってたまにするだろうと笑って濁す。

お前がボスのためだけに銃を撃ってた時代が懐かしいと、兄がマルボロに火をつける。

そんな時もあったと返す。

常に主人の背後に立ち、その命と俺のためだけに銃を迷いなく撃つ。断末魔を聞き飽きるほどに、延々と代り映えのしない日を繰り返す。メンテナンスとして風呂や食事を済ませ、たまに映画なんかを見て、自分を忘れる。記憶は昨日のように蘇るが、空虚な分だけすかし絵のように浅い思いしか抱けない。

あの時のお前はイカしてたぜ。くだらない人間味なんてありゃしなかった。

酒が進むにつれ、兄が声を荒げ始める。客も俺達だけになり、遠慮がなくなったのだろう。弟が顔なじみらしいマスターに苦笑いしながら、いくばかのチップをコースターの下に挟んで新たなオーダーを出す。俺はその金で出された三杯目を舐めながら、淡々と兄の言葉を聞いていた。

お前は銃だ。持ち主が必要だ。どうせなら、俺と組め。

そうだぜ、兄貴は新しい組織を立ち上げたんだ。まだ人は少ねえが、ここらじゃ有名なんだ。

弟が持ち上げるように補足する。俺は首を縦にも横にも振らなかった。

お前はあいつに利用されてるんだ。義理堅いのはいいことだが、悪人が悪用されてどうする。

俺の耳を素通りしていた言葉が急に胸に落ちたような気がした。閉じていた唇が、少し開く。

あんな男、組んでいたってロクなことはない。お前の名が落ちるだけだ。

突然襟首を掴まれ、持ち上げられる。そして唾が顔に当たるほど怒鳴られた。

腑抜けた顔しやがって。いつか必ず騙されるぞ。

やめろ、という言葉が喉まで出かかった。だが、そうすればまるで俺があいつを信じているかのように見えてしまう。平常心を見せるように静かに襟首の手を掴んで離し、ポケットから札を取り出した。

心配ありがとうよ、だが俺もバカじゃねえ。

それだけを言い残し、店を出る。ドアの向こうから、グラスの砕ける音がした。

マンションまでは煙草を吹かしながら歩き続けた。ドブ臭い空気を、むせ返りそうになりながら胸に染み込ませる。殺しをした後、俺が生を感じるのはこの生臭い空気だけだった。たとえ不快なものでも、感じられるだけ人を保っていた。だが、その空気も懐かしくはあっても今はどこか他人事だ。脳が目覚めるような匂い。今はそれを求めていた。

あいつと仕事をする時、俺は確かにそれを感じた。仕事前の緊張が、互いの体臭を濃く感じさせる。他人のテリトリーに侵入した時の警戒心で際立った上品な匂いが鼻を濃くくすぐる。宝と呼ばれるそれを手にした時、触れた指先から自分のアドレナリンの匂いさえ感じるような気がした。そして、焦げるようなあいつの強い匂いが一際沁みるのを思い出す。仕事が終わればその匂いを感じなくなり、虚ろな空気の無味加減に飽きる。またあの匂いを感じたい。たとえ利用され、騙されていたとしても構わない。その時は、幾度と感じてきた悲しみと何故という縋りを、また指先に込めればいい。

そう思った直後、その思いを自分で飲みきれていないことに気づく。あの男を信用するなんざ、バカのすることだ。なのに俺は信じたいらしい。早く殺し屋か、それでなくても用心棒にでも戻ろう。俺は、あいつを許してやれない。殺したくないのに、引き金を引いてしまう。あいつが教えた生を奪わない撃ち方は、できない。

道に迷い出した思考を止め、雲で蓋をされた空を見上げた。今にも降ってきそうな、薄明るい鼠色の雲が見える。雨に濡れる前に、帰るべきだった。

 

 

 

 

 

【思惑】

二人掛けのソファーに座りながら、俺は銀行の見取り図を畳んだ。それと同時に、マンションのドアに鍵の差し込まれる音がした。雨に降られたのか、トレードマークの黒い帽子とジャケットが雫をはじいていた。そういえば肌寒いと、俺も巻くっていたシャツの袖を戻した。

「よう、おかえり」

お前の部屋じゃないだろ」

声をかけてやると少し足を止めて、戸惑いがちに返す。最初にとびきりデカイ仕事をしようと持ちかけた時の反応と同じだった。

戸惑いながらも、拒否はしない。

「風呂に入ったら、寝る」

「ん、わかった。俺も後で借りるぜ」

「好きにしろ」

ソファーの背にジャケットと帽子を被せ、風呂場に向かう。腰に差し込んだ銃はそのままだった。俺はシャワーの音が鳴ってから、その帽子を手にとって裏返した。中のスベリの裏側に仕掛けたシール型の盗聴器を抜き取り、胸ポケットに入れる。これはちょっとした好奇心だった。殆ど自分を出さない男が、一人で何をしているのか気になった。次元が出かけた後、俺は盗聴器へ繋いだ無線を首にかけたヘッドホンで聞いていた。

ありふれた雑音の後、下卑た声が割り込んで来る。昔の知り合いらしいが、どうにも相手側が冷たい。泥棒に成り下がったと詰られても、俺がこき下ろされても、次元は黙っていた。言い返せないのか、単に口喧嘩するのも面倒くさいのか。おそらく前者だった。

俺達は仕事上お互いを信用しているが、仕事が絡まなければ信頼などないに等しい。互いに踏み入らず、踏み込ませない。ただ、笑ったり酔った姿を見せたり、少し隙を見せることはある。仕事のウマが合っても馴れ合わない。あくまでビジネスだけの関係。そんなものは取っ払って俺の側へ来い。俺がそう思ってアプローチしようとしても、いつもその前に逃げられていた。

いつか騙されるぞ。聞こえて来たその言葉に、騙す気なんかねえよと勝手に心が返す。そんなことをしたって、何の得もない。俺はただ欲しいだけだ。俺もバカじゃねえ。次元のその言葉は、騙される前に離れるという意味だろうか。悪いが、俺様は一度狙ったものは手に入れるまで追いかける主義だ。お前は、もう逃げられない。そう囁いてやりたかった。

それからは雨の音しかせず、鉄製の外階段を登る音が聞こえる頃にはヘッドホンを外した。シャワーの音はもう聞こえなかった。

「俺も入るか」

背伸びをし、風呂場に向かう。脱衣所に入ると、湯気に中が湿っていた。俺とは違う男物のシャンプーの匂いも強く残っている。男の匂いなんてのはむさ苦しくて不快だが、あのミント系のシャンプーとうっすらとした体臭だけは嫌じゃなかった。シャツを脱ぎ、あいつの抜け殻の上に被せる。ふと湯気に曇ったガラスのドアを見ると、肌色の影がうずくまっているのが見えた。

 

 

 

 

【私欲】

「おい、大丈夫かよ。飲み過ぎか?」

タイルの上にうつ伏せで倒れた身体の脇に行き、顔を見る。つけたばかりの白いシャンプーで髪をぬるつかせたまま、真っ青になって呻くのを見て、遅効性の毒にやられている時の人間だと気づく。

「ちげ、ぇ

かろうじて言葉を発したが、助けてくれとも言わず目蓋を閉じてしまう。少し焦りつつ、頬を叩いた。

「次元、次元? なんつーもん飲んできてんだよ、このバカ」

暖かいシャワーを出したままにして、身体に覆いかぶさった。

「噛むなよ」

手がかかると思いながら胸を腕にぶら下げるように抱え、脱力した顎を掴んで下げる。開いた隙間に右手の指を差し込み、喉の奥を軽く突く。本当ならば胃の洗浄が必要なところだが、急場を凌ぐにはこれしかない。えづくのに合わせて、また舌の根元をくすぐる。肩が強張った瞬間指を引き抜き、全て吐き出せるようにみぞおちのあたりを指で押した。抵抗するように右の手首を掴んで来た手を左手で握り離し、汚れた口にまた右の人差し指と中指を入れた。

「ン、ぐ、うう…!」

「全部出さねえとダメだって。死にたくねえだろ?」

「ッ、う…」

そう言えば、抵抗はなくなった。何度かそれを繰り返し、何も吐くものがなくなったところで口をゆすがせ、脱衣所に引きずり出した。

「お疲れさん」

物言わず横になっている男にバスタオルだけかけてやる。

「今、解毒剤持ってきてやるから」

風呂場を出て、脱衣カゴの下着を穿き直してからリビングに向かう。これだけ飲ませておけばいいだろうと、ジャケットのポケットに入れていたカラフルな錠剤を掌に握った。それを持って転がった男のところに戻り、その身体を背面に抱えて冷たい壁に寄りかかる。マグに汲んだ水と一緒に飲み込ませ、吐き戻さないように掌で唇をふさいだ。殆ど止まった息が戻るまで、もう大丈夫だと分かるまで、冷たい身体が人並みに戻るまでそうしていた。

こうすれば少しは心を開いてくれるだろうか。そんなことを思いながら掌を離し厚めの前髪を避け顔色を見る。なかなか良くはならないが、身体は少しずつ温まっていった。

いい加減、離せよ」

うとうとと眠気を覚えた頃、力のない声を聞く。声の余韻が胸へ響くのに目を開けば、嫌そうな顔で横を向いていた。

「感謝の一言くらいあってもいいんじゃねえの」

軽く頬を抓る。返事も反応もなかった。

「いいけどよ、俺が好きでやったんだし」

その後ベッドまで肩を支えて連れて行き、冬用の毛布をかけてやり部屋を出た。シャワーでタイルの床を洗い、タオルを被せられ壁の物置台に置かれていたマグナムを持ち、浴室の物置台に乗せた。シャンプーを流してやらなかったのを思い出したが、もういいだろうとドアを閉める。ようやく浴びれたシャワーに肩の力を抜き、髪と身体を洗って自室に戻る。そして軽い疲れを感じ、浅い眠りに身を任せた。

朝になり、何食わぬ顔の男がリビングに出て来た。軋んだ髪をうざったそうにしながら、トースターでパンを焼く。キッチンテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた俺の前に座り、黙々とそれを噛んだ。

悪かった」

ぽつりと呟いた顔を見たが、前髪で目は隠れていて、唇は動いて表情を読み取らせない。

「気にすんなよ」

平静に返して、俺もマグで口元を隠す。俺も打算で助けたしという言葉も隠しておく。

「まあ、外で口にするもんにはもっと気を付けた方がいいぜ。お前案外鈍いし」

最後に嫌味を付け足したが、言い返されることはなかった。

昨日のあれは、どうやら店主に薬を盛られたらしかった。どう考えてもあのチンピラ達の指示だろう。とはいえ嫌がらせにしてはやり過ぎだ。もしかすると、俺が絡んでると知って潰そうとしたのかもしれない。

「昨日はどこで呑んでたんだ?」

「そんなの、どうでもいいだろ」

「どうでもよくねえよ。俺だって入っちまうかもしれねえだろ。それに、恩人に経緯も説明しないなんて失礼だぜ」

そう言ってやれば、四ブロック先の赤いドアのバーの名前を言った。

「で、そこで恨み買うようなことでもあったのか?」

「昔の知り合いと少し飲んだ」

裏切ってもいなければ、利用したこともない奴らだったと吐露する。理由もなく騙されたと言いたいのだろう。

責めるわけではないが、騙される方には思い当たることがないのが殆どだということを、こいつは知らないらしい。慎重なくせに、時折無意識に隙を見せる。そこに付け入られて、騙され、今のように心を固く閉ざした男になっていったのだろうか。どうしてこんな無防備で殺し屋を続けてこれたのか。それは一応に、銃の才能のおかげとしか思えない。こんな人間だと知っては、あまり一人でフラフラされるのも心配、というよりは困りものだ。

それからは、次元が飲みに出る時は俺もついていくことにした。側にいれば、余計な心配は要らなかった。次元は嫌がったが、この間みたいなことがあると迷惑だと言えば拒否はしなかった。場末のストリップに行くこともあったが、次元はあまり裸体を見ずにグラスの中の酒ばかり見ていた。

その日は夕食をレストランで済ませ、俺のいきつけのラウンジへ誘った。薄暗い店内の隅にある、向かい合ったソファー席に座る。通常のバーとは違い、俺達二人がともにいることを好き勝手に言う客もいない、粗暴な客に雰囲気を荒らされることもなかった。

「そうやって酒飲む時、何考えてんの?」

黒い帽子のつばを目深に被った顔を見ながら、聞いてみた。

「俺の頭の中なんかどうでもいいだろ。余計なこと聞くな」

「いーじゃん、これくらい聞いたって」

俺達の付き合いはもう浅くないし、短くもない。危ない橋を渡る同士、お互いのことくらい知っておいた方が良い。

言葉を付け足しながら様子を見る。首筋の髪が汗ばんだ肌に少しばかり張り付いていた。大分呑んだこともあって暑いのかもしれない。

「勘違いするな。俺はお前のダチじゃない」

首回りにまとわりつく黒い髪を払い、それ以上は何も口にしない。命を助けられれば、普通はもう少し距離が縮まるものだ。仕事のウマだって抜群に合うというのに、こいつの心はいつまでも俺を遠ざける。捕まえてくれと、隙を見せるくせに。

「あくまでビジネスパートナーか? それにしても冷た過ぎんじゃねえの」

もっと仲良くしようぜ、とグラスを次元の手の近くに寄せる。角張った血色の悪い手は、俺から逃げた。

いいさ、そのうちどこにも逃げられないようにしてやるから。

帽子の影で見えない表情を眺めながら、ウィスキーを舐めた。

 

 

 

 

 

 

【慕情】

大仕事の夜の前日、俺は何度もリロードを終えたシリンダーを開き、親指で刻印を撫でた。あいつが考えた計画はよく考えられているが、派手で無茶だった。AIを導入した警備システムに、独自のプログラムをハッキングして自分を主人だと思わせる。そして警官を敵と思わせる。それから札束を機械達に運ばせ、トラックに詰めるだけ詰め込ませる。タイヤが軋む程のそれを、近場にある川まで運んで持ち去るらしい。川ではトラックの荷台は船に偽装され、故障した船を引く体で持ち去る。

俺はあいつが乗り込み逃げる瞬間を別のビルから護衛する役割だった。逃げる時が一番無防備だということはよく知っていた。もし俺があいつを狙えば、確実に殺せる。だがあいつに俺を援護に回した。それはあいつが俺を信頼している証拠だった。仕事だからだ。それ以上の意味はない。その思いを繰り返し、揺れる心を静めた。

決行の日、俺はビルの屋上にいた。膝支えたライフルのスコープを覗きながら、あいつからの合図を待ち続けた。時折、逃走用の出口に近づこうとする警官の足元に跳弾で打ち込んで遊ぶ。どこから撃たれているのかわからずオロオロしている警官の姿は滑稽だった。

「どきな。あいつの邪魔だ」

無線を繋がず独り言を呟くと、ヘッドホンが鼓膜にノイズを立てた。

『あと十秒で出る。しっかり蝿叩き頼むぜ』

予告の後、俺はまたスコープを覗いた。跳弾をさせず前よりも激しく撃ち込み、警官達を退かせた。唯一の出口である鉄製のドアが蹴り開けられ、中から夜の黒に染めたスーツの男が出て来る。あいつがトラックに乗り込み、ほんの少しノロノロと進ませた後、急激に加速を始めて弾丸のように街の果てへ逃げる。

  落ち合う先はハドソン川の先、州立公園を越えた場所にあるモーテル。俺はライフルをその場に捨て、腰のマグナムを右手に握った。隣のビルへかぎ爪付きのロープで飛び移り、鍵をこわして非常階段で地上へ逃げる。射撃地点をとっくに把握されているのを知って、同じビルから下りる馬鹿はいない。

地上に出た途端、あの下水の臭いを感じる。背後に迫る無数の足音を感じる。まるで現実ではないような恐怖と興奮に急き立てられるように走り出した。川が近づくにつれ、生臭さが色を変える。走り、呼吸が乱れれば乱れるほど、その匂いは強く脳へ染み込んで行った。逃走用の車に乗り、船とは真反対に向かう方へと走り出した。輝く橋を越え、スピードを落として他の車に紛れ込む。

おい、うまくやってるか」

落ち着いたところでヘッドホンの無線をかけた。

『俺様を誰だと思ってんだよ』

ザリザリと音に混じりながら、興奮を抑えた深い声が返って来た。俺は当たり前のことを聞いたと思い、少し笑った。

「愚問だったな」

『そういうこと。それに最高のガンマンのサポートもあるんだ、失敗なんかするかよ』

「ふ、それもそうだな」

突然持ち上げられて戸惑うことも、この頃にはなかった。気を許したわけではないが、少し慣れたのだ。さも当然と俺が返した後、穏やかなオレンジに染められた道路を突き進む。モーテルまでは車で一時間弱。奴は船に偽装したトラックの荷台を浅瀬につけ、モーテルにバイクで向かう予定だ。俺とは大した時間差もなく着くはずだった。

先に着いたのは俺のようで、中は暗かった。灯りをつけ、あいつが言いつけていた祝杯の準備をする。通常は追っ手がないと確信してから飲むものだが、俺は待ちきれなかった。まだ落ち着かない鼓動に煙草の煙を吸わせ、なだめる。それでも、匂いが異様に強く脳を刺激する。カビ臭いモーテルに、俺の硝煙の匂い。そして、まだあるはずのないあいつの身体の香りまで。

ムスクのような清廉な香りに、ジタンの棘の生えたような残り香り。日本人にはない、独特の汗の匂い。仕事が終わった後の、あの匂いがたまらない。前にハングライダーで嗅いだ時の、あの匂い。エメラルドから香った自分の興奮の匂いより、それは強かった。俺が毒を盛られた時は、その匂いを長らく嗅いだ。安心と興奮が同居する、気の狂いそうな感情に、一言の礼を言うこともできないほどの、何か。一度でいいから、あの胸にしがみついて嗅いでみたい。好んで呼吸することを、生きたいと思うことを、実感したい。

俺はたまらず、ボトルの蓋に手をかけた。そしてあいつが来た頃には、ぐったりするほど酔ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

【誘引】

 予定より一時間遅れて、俺は待ち合わせのモーテルへたどり着いた。隠し場所にしようとしていた船着き場が警察に抑えられていて、代わりを見つけるのに手間取ってしまった。明かりのついた部屋に入ると、一つしかないソファーに寝転がっている男がいた。帽子を床に転がし、顔を赤くして呻いてる。足元を見ると、ワインとウィスキーのボトルが転がっていた。一緒に飲もうという約束だったのに、待ちきれなかったらしい。

「次元、大丈夫か」

肩を揺さぶると、低く呻きながら目を開け、ゆっくりと身体を起こした。

「だいじょうぶ、だ」

触るなと俺の腕を退けるが、とても立てそうにはなかった。無防備過ぎる姿に、俺は薄く笑った。

「なあ、次元」

隣へ座り、肩を抱く。あいつは嫌がって呻いたが、それ以上抵抗しなかった。

「俺様の相棒にならない?」

「…いやだ」

「どうして? 俺様のこと嫌い?」

「嫌いじゃ、ねえよ」

なら何故、と囁いて尋ねる。次元はそれから先は言わず、黙りこくった。

「まあいいよ。今はな」

髪に口づけ、抵抗されないのをいいことに濡れた掌を握った。

「ばか、はなせ」

ようやく焦り始めたのか、片腕を突っ張る。今更もう遅いと思いながら、その腕を取って赤い耳に唇を寄せた。

「次の仕事の話、してもいい?」

NOと次元が言う前に、俺は次の仕事の話を始める。そして聞き終わらせたと同時に、覚えていないと言い逃れられないように書類にサインをさせた。俺との仕事が終わるまで、俺といること。その一文には赤いラインを引いてやっていた。

朝になって、あいつは二日酔いになりながらもそれを覚えていた。強引な契約に怒ってはいたが、また俺に接触を許したのが不覚だったのか俺を見ると何も言わなくなった。そして次の日には、文句と悪態をつきながら隣の部屋から起きて来た。

 

 

 

 

 

 

 

【無念】

「プルートゥの涙って知ってるか」

俺が寝転がったソファーの前で、あいつが突然口にする。あいつは向かいのソファーに座っていた。隣のアパートの壁しか見えない窓に背を向けて、朝のコーヒーを飲み、下らないバラエティ番組が写す東京を見ていた。

「さぁ、知らね」

俺は一度読んだ跡のある新聞を腹の上に広げて、政治家の汚職の欄を眺めていた。

「おい、ちったぁ興味持てよな」

不満げに返しながら、俺の前で指の輪を作る。

「世界最大のブルーダイヤさ。涙っていうくせに、目ん玉より大きいと来た」

言いながら、自分の眼球に指の輪を押し当てた。

「次の狙いはそれか」

「そ、でもこいつは一筋縄じゃいかねえみたいでよ」

「警備が厳しいってことか」

「警備員もいない遺跡の中にあるんだよ。でもよ、なんでも立ち入ったら二度と出てこれないんだと」

わからねえな、と俺は視線を新聞に戻す。窓から風が吹き、晴れの日の太陽の匂いを部屋の中に届ける。眠気を覚えるほど気持ちが良かった。

「聞いてるか? つまりだ。この遺跡の呪いが強過ぎるせいで、まだだーれもこのお宝を見ちゃいねえんだ。ま、呪いってのも本当かどうかはわからねえけどよ。こういうミステリアスな仕事もたまにはいいだろ?」

「何がいいか、俺には分からねえ」

テレビ欄に行き着いたところで新聞を閉じ、煙草に火を灯す。

「たまにはロマンを求めましょ、って話よ」

あいつは言いながらブラックコーヒーを口に含む。

「今のお前に必要なのはロマンより金だろ。頼まれたって貸さねえからな」

先日の金で、あいつは世界のあちこちにアジトを買いなおしたらしい。まったく金というのは、ある分だけ足りなくなる。あっという間に、金の殆どを使い果たしていた。

「そんな冷たいこと言わないでよ、ダーリン」

冗談めかして言いながら、手に持っていた何枚かの写真をめくった。

「話の続き。この呪われた遺跡に少し踏み入っただけで、叫び声が聞こえてそれきりなんだそうだ」

あいつが無言で写真を差し出す。それを指先でひったくって見たが、ただの小さな岩山に数人が通れるほどの穴があるだけで、他には何も分からない。

「これがどうかしたのかよ」

「お前はこれをみてどう思う?」

「質問を質問で返すな。ただの岩じゃねえか、これが遺跡なのか?」

そうなんだよなぁ、と短い髪の後頭部を掻き、真後ろにあった窓を仰け反って見始める。

「結局お前も分からねえのかよ」

「今はな。ま、現地行きゃ何か分かるでしょ」

付き合ってくれるよな?と頭を戻して俺を見る。付き合うも何も、今は他に仕事がない。

「お前のせいでヒマだからな。稼がせてもらうさ」

巷を騒がす大泥棒、もとい詐欺師と何度も組んだことが原因で、俺は得意先のクライアントからまで警戒されていた。ルパンがまた企んでいるんだろうと行く先々で言われれば、正式に組んだわけじゃないと言っても訝しまれるだけだ。金が尽きようとしているのにのんびりと構えているこいつと離れたいと思っても、難しい。早く離れてしまいたかった。だが俺は、いつもこれが最後だと言い損ねていた。

「んじゃ決まり。出発は明日だな」

煙草の灰にまみれたテーブルへ置いていたパソコンを開き、あいつは作業を始める。そして東京に新しい朝日が昇ったころには、俺達は日本にはいなかった。

 

  ギリシャに近い場所にある小島にたどり着いた時、まだ太陽が高かった。地盤沈下で突如として現れたという島には海面であった時の跡が残っていて、生臭さも残っていた。地面に生えた貝を靴越しに踏めば、不快感を覚える。こんなに見通しの良い場所は、居心地が悪い。ちらほらと作業員らしい男達に紛れ、俺は土気色のツナギで辺りをうろつく。あいつは研究者風の小綺麗なセパレートの作業服に、偽物の名札をぶら下げていた。遺跡に近くなり、責任者らしい初老の男が見えてくる。それとともに、岩の削るような騒音が強くなっていった。

どうも教授、私こういうものでして。

あいつがうやうやしくデタラメの名刺を差し出す。

厳格そうな白髪混じりの英国人は、ああハーバードのと興味なさげに名刺を尻ポケットにしまう。

そして岩山の腹をドリルで削っていた男達に作業をやめるよう促した。

発掘の方は如何ですか。

如何も何も、呪いのせいで立ち入れん。

並みの人間ならそうでしょうなあ。

あの穴が空くまで、あと1ヶ月はかかる。

そんなには待てませんねえ。

あいつがちらりと俺を見て、首を傾けて来いと命令する。

この男は銃の達人でして、試しに入らせてもよいでしょうか。

雲の浮かぶ青い空の下であいつが言う。

どうだか。死んでも儂は知らんぞ。

教授が興味無さげに背を向けた時、小声が耳をくすぐった。

「任せたぜ」

「作戦は?」

「んなもん要らねえよ」

潜るのは俺だと言うのに、無責任なことを言いやがってと舌打ちする。ツナギは動きにくく、その場で脱いでいつものスーツ姿に戻った。遺跡という海藻と貝にまみれた汚い岩山を見上げる。入り口は横に広いが、高さは二メートルあるかないかという程度だ。

ふと、こそこそと後ろから声がする。作業員の男達が、俺を指して嗤っているのだった。

「お前が何秒持つか賭けようぜ。だってさ」

「わざわざ教えんな」

ギリシャ語なんて俺にはさっぱり分からない。あいつは語学が堪能らしく、俺と日本語で会話していたかと思えば突然別言語で通りかかった女をナンパすることが何度かあった。汚い現地語の訛りも直ぐに覚える。マトモな稼業に就いていたら、どんな位の席に座っていても不思議には思わなかっただろう。

「次元、十歩進んだら中で待ってろ」

「奥に行かねえのか?」

「ああ」

「なぜだ」

「すぐに分かるさ。日暮れの頃迎えに行く」

ポケットに手を突っ込み、俺の背中を視線で押す。虎穴に入るのは俺だけかと思いながら、じめじめとした中に入る。外の光は大して中に差し込まず、暗い。俺は言われた通り、警戒しながら一歩ずつ横に歩く。そして丁度十歩目、暗闇に完全に身を沈めた時、右に殺気を感じた。頭を突き刺そうとした槍の切っ先を避け、銃を撃ち放つ。ガンフラッシュに、額に穴を開けた人間の断末の顔が映し出される。絶叫し倒れたそいつは、もうぴくりとも動かない。こういうことかよと舌打ちし、つい殺しちまったとため息を吐く。

『だから言わんこっちゃない』

『あの男に潜り抜けられると思ったんですけどねえ』

あいつが通信機に改造した襟元のボタンから、そんな声が聞こえてくる。俺が死んだと思っていないあいつの声から、ひとまずうまくやったと胸を。撫で下ろす

『死体は引き出せますでしょうか?』

『止めはしないが、君を引き出す人間はいない事を覚えておけ』

教授が冷たく言い放ち、始めろと掘削機で遺跡脇の岩を削るよう命令する。穴の中に轟音が響き、これにあと数時間耐えるのかとうんざりとした気持ちになる。とはいえ、1時間も経てば俺はその空間に同化できる。これは数年前に外人部隊で、戦場で身につけたスキルだった。

「おい、猿」

『猿はねーだろ。どうした?』

「罠はこの先にはないみたいだぞ。どうすんだ」

俺の隣で転がっている男はどう見ても俺と同系統の東洋人で、現地人ではなかった。大方どこからか雇われた殺し屋で、遺跡に入って来た人間を次々と殺したのだろう。そしてこの遺跡に人知れず暗殺者を忍ばせたのは、さっきの教授に違いなかった。大方、世紀の発見者としての名誉とお宝を独り占めしたいのだろう。殺しを呪いのせいだと見せかけながら。ひょっとすると、あいつはこれを見る前に、そのことを知っていたのか。そうだとしたら、よくよく頭の回る奴だ。

『いいから待ってな。必ず迎えにいくからよ』

そう言って通信を切ってしまう。死体と昼寝はごめんだと思いながら、壁に背を預けて煙草にライターの火を当てた。どうせ土煙に紛れて分かりはしない。これからどうすんだよと、もう一度心の中であいつに尋ね、俺も岩の一部になった。

 

  太陽が地平線へ昼を引きずり落とした頃、通信機から砂嵐が聞こえて来た。

『ようやく全員帰ったぜ。今から行く』

掠れた声の相槌だけを返してしばらく後、時計の懐中電灯で中が照らされる。その光が眩しくて、手をかざして逆光の人影を見た。

「よく耐えられたな、それ」

死体と延々と待っていた俺を貶してるのか褒めているのか、あいつはそう言った。

いつものことだ。悪いが、先に戻るぜ」

「なぁに言ってんの、お前も行くんだよ。そういう契約だろ?」

楽しそうに笑いながら俺に手を伸ばし、俺はしぶしぶそれを掴んで立ち上がる。奥の方へ歩きながら、あいつが地面を照らす。

突然、光が地に反射せずどこかに吸い込まれた。不思議に思って覗き込むと、人一人分のくぼみがあった。

「気を付けろ、濡れてる」

あいつが下に飛び降りたのを、つい俺も追ってしまう。くぼみの中の壁には、パルテノンで見たような柱が埋まっていた。しかしその先いくら奥に進めど、罠などなかった。

「これじゃあとっくにあの教授が回収しちまってるんじゃないか」

長らく歩き続け、薄まって行く酸素に息苦しさを覚える。

「ならさっさと外の人間を入れて、ありませんでしたって言ってるはずだろ」

この男の頭はどこまで先を読んでいるのか、さも当たり前のように言う。

「お宝はあるが、取り出せないか誰にも見せたくないぐらいのもんなんだろうよ」

そう言いながら急に歩みを止める。懐中電灯の光の円の中に、行き止まりが見えた。不規則な壁の凹凸を、あいつはまじまじと見る。

「おそらく、この向こう側だ」

その凹凸をコツンと叩き、俺に見ろと促す。じっと見つめていると、何か文字が書き込まれているのがわかる。だが、俺にはまるで何のことか分からなかった。

「古典ギリシア語だよ。だがこいつはネイティブが書いたもんじゃねえな」

「えらく詳しいじゃねえか。お前、実は真面目に学校へ行ってた口か」

「いいや。ガキの頃、暇つぶしに覚えたのさ」

さらりと言うが、難解であろう古語をガキが理解できるのだろうか。嘘か本当かは分からないが、本当ならば神童と持て囃されたことだろう。そして、俺とは違い裕福な家庭で育ったのだろうと思った。

「で、何て書いてあるんだ」

「プルートゥの涙はここにあらず」

なんだと、と聞き返せば、見ろよと壁の窪みを指した。それは突如ぽっかりと空いていて、何かがハマっていたと思わせる。

「チッくたびれ損の骨折り儲けかよ」

「まだそうとは決まってねえよ」

そういうとおもむろに胸元のガンホルダーからワルサーを取り出す。そして三歩ほど引いて、何発か壁に打ち込んだ。

「全然ダメだわ。次元ちゃん、いける?」

これセメントなんだけど、と壁を蹴る。退けと前に出て、フルに装填したリボルバーを構えた。ハニカムの頂点を繋ぎ合わせるように六発を撃ち込み、思い切り踵で蹴り込んだ。そうすればぼろぼろと偽物の石壁が崩れていく。その瞬間、凄まじい腐敗臭が鼻をつんざいた。

「あーらまあ、つまんねえもん隠してたんだな」

壁の向こうには、十体ほどの人間の死体が転がっていた。大方新しい遺体のようだったが、一つだけ髑髏が転がっているのを見る。

「どういうことだ」

「さあ。大方邪魔な人間をここに呼び込んだ上で殺して、隠してたってところかな」

一人を殺した時、呪いに全ての濡れ衣を着せたんだろうさ。

そう言って俺達が壊した壁の他に、張りぼての壁の残骸があるのを見つける。

「そろそろ潮時と思って、本格的に偽物の壁を建てたんだろうよ。でも結局見つかるのが怖くなって、あの殺し屋を忍ばせてたんだろうぜ」

あいつはその残骸を蹴散らし、低い天井を見上げる。

「穴を開けるとか言ってたが、大方事故に見せかけてこの遺跡ごと潰す気なんだろうな」

「…とんだ大外れじゃねえか」

つぶやき、俺は一人踵を返した。あいつもしばらくして、後をついて来た。

あの死体達は弔いを受けることなく、あの遺跡とともに潰されるのだろう。不憫なことだが、どんな悪行を見ても俺達にはそれを正す権利はない。結局のところ、俺達にはどうにもできないことだった。そもそも、あの教授より俺の方がよっぽど殺している。自分が今日殺した、あの男の顔を思い出してしまう。息が急に詰まって、急ぎ足で出口へ向かった。薄明るい月夜の下に出て、潮臭さの薄れた空気を深く吸い込んだ。

「帰るかぁ。目当ては外れたが、小銭くらいは稼いだぜ」

あいつがそう言って、じゃらりと指輪をはめ込んだ左手を見せてきた。指の関節の数と同じだけのそれは、売ればそこそこの金になりそうだった。

「そんなもん、どこで盗ってきた」

「教授の別荘だよ。他にもロレックス、ブルガリ、ティファニーとその他もろもろ。多分殺した奴らからくすねたんだろうな」

「死人の遺産かよ。そんなもんさっさと売っちまえ」

「そうだな」

悪いが飯ダネにさせてもらうぜと、あいつが宝石に口づける。

俺も弔砲を撃とうとして、やめた。俺がそんなことしても、なんの弔いにもならないと気づいて。

 

「おい」

帰りのボートに乗った頃、俺は舵を握る背中に声をかけた。

「次はもっとマシな仕事にしてくれ」

いっそのことなら、もうお前とは二度と組まないと言いたかった。だが、どうせならもっと気持ちのいい仕事を最後にしたい。俺はいずれ、殺し屋の日々に戻る日が来る。たとえお前とだけ仕事をしていたいと望んでも、いつかお前はいなくなるだろう。そうと分かっているなら、俺を生かしてきた殺しの腕を忘れぬ前に離れなければいけない。それならば、最後くらいは楽しい夢が見たい。久しぶりに感じた、俺自身の欲だった。だからこそずっと、拒否し損ねていた。

  あいつは俺を振り返った。そして、じっと俺の目を見つめた。

「やっぱりお前さ

言いかけて、何でもないと俺から顔を逸らす。何だよと尋ね返すことはなく、俺は下を向いた。どうせロクなことを思われてはいない。

しばらくの沈黙の後、向こう岸の光が見えて来た頃に、あいつがまた俺を振り返った。

「たまにはこういうこともあんのよ。でもよ、ハズレのねえ博打なんてしても面白くねえだろ」

そう言うあいつは、俺とは違って何食わぬ顔だった。頭の回転も速い、切り替えも早い。同じ悪の世界に生きているはずなのに、こいつは何も後悔しない。まっすぐに、明日を見ている。

「そういやお前、カジノは好き?」

人並みにな」

「じゃあ次はカジノの現ナマでも盗んで、どっかに別荘でも買ってのんびりすっか」

それどころか、気持ちのいい顔をする。いつ何時でも、自分こそ悪であると胸を張っている。

そう思うと、俺とは遠い人間のように感じた。ボートの舵を切るあいつの背中がまぶしく見えて、顔を背ける。

お前と二人きりは嫌だぜ。目が潰れそうだ」

「俺様の顔のこと言ってんのかよ、失礼な奴だな」

今度じっくり見せてやるさ、きっと惚れるぜ。

そう付け足し、あいつは呑気に笑った。

 

 

【諦念】

あいつと仕事を初めて、半年が経ったころだった。俺のもとに一通の手紙が届いた。俺はそれを見て、すぐに立ち上がった。

「行って来る」

「へ? どこに」

俺はその問いかけに答えず、あいつのアジトを出た。

 

待ち合わせに指定されたアメリカはウィルダネス、観光客も近寄らぬ荒野の果てだった。ガンマンは荒野を好む。俺達を静寂に置いてくれる場所はここしかないことを知っているからだ。

俺よりふた回りはでかい身体のアメリカ人が気取った皮ジャケットをはおり、俺を待っていた。ブルネットの髪に、ふざけたにやけ顔。小物臭は拭えないが、舐めてかかっていい相手など俺には存在しない。いつだって過ぎる程の慎重さが俺を生かしてきた。

お前が次元大介か。アメリカ最高峰のガンマンがこんなにしょぼい東洋人だとは、星条旗が泣くぜ。

そう言って俺を嘲る。白人のこの高圧的な態度には、とっくに慣れていた。バカは能ある鷹は爪を隠すって言葉を知らないもんだなと煽り返し、腰のマグナムに手を添える。奴も腿のホルスターに差していたM500に手をかけた。合図は任せると声をかけ、深く鼻で息をした。焦げた大地の匂いが脳を炙る。それに伴って、五感が鋭敏になっていく。相手の呼吸の蠢きも、静寂の風も、肌に滲み出る汗も、口に残るぺルメルの味も、全てが俺を高めていた。緊張と集中が張り詰め、弓をギリギリまで引き込んだ時のように解き放たれるのを待っている。

生きている、確かにそう感じた。

ガンマン同士の対決は、俺にとって唯一の癒しだった。相手の利き腕を撃ち抜いた方が生き、撃ち抜かれた方はこれからを生きるか生きないかの選択をする。殺しと同じで野蛮だが、それとは比べ物にならないほどの気持ちの良い孤独、生きているという実感。どこまで堕ちようと、俺が銃を離さない最大の理由。俺は撃つためにここにいる、生きている。そう思えた。そしてこの時だけは、死が怖くなかった。

戦場にいた頃は、嫌という程死にたくないと感じた。生きていたい。ただ、それだけの理由で俺は他人を殺し続けた。戦場が嫌になって殺し屋を始めてからもそれは変わらなかった。死ぬのはあまりにも怖い。真っ暗闇に永遠に堕ちていく。時間が、自我が失われる。そう思うと急に心臓が縮こまり、冷たくなる。他人を殺すくせに、俺はそれが怖かった。

だが俺に殺し屋以外の生きるすべはなく、俺はそれに囚われ続ける。俺は毎日同じ日を繰り返しているようだった。何度やり直しても、抜け出せない迷路の中にいた。もし俺を撃ち負かす奴がいるなら、いっそ撃ち抜かれてしまいたかった。

相手が銃を抜いた瞬間、俺はすでに一発を放っていた。ジャケットを引き裂き、弾丸が男の肩を内側から砕く。悲鳴が聞こえた。足掻くように持ち上げられたグリップにもう一発だけ当てて弾き飛ばし、俺は硝煙を吹き消してから銃身を腰に刺した。まだ温い。もう少し熱くなってもよかった。

「よかったな。これで銃なんか握らずに生きていけるぜ」

俺は男に背を向け、荒野に向かい、車を停めた岩場の影までゆっくりと歩き出した。ブルーのチェロキーが見え、キーを差し込み乗り込む。コンクリートロードへ戻った頃に、窓を開け煙草を一本つけた。肺にしみるタールと、馴染みの香りが心臓にまで滲む。この瞬間、今この時を生きているという快楽が俺を満たした。

途中、先ほどの男が肩を抱えて別の岩場へ向かって行くのが見えた。その影から女が飛び出て来た。女が泣きながら男を抱きとめる。男も女を抱きしめている。 

守るものがあるだなんて、上等じゃねえか」

俺はそんなものを持ったことがない。持つことさえ、許される気がしない。俺はこのまま、明日のないまま、生き続けるしかない。いつか誰かに殺されるまで。あるいはこの右腕が誰かに負けるまで。それ以外の選択肢は、俺には許されていない。何度も繰り返した思いの途中で、あいつの顔が頭に浮かんだ。

あいつとの仕事は、今までのどんな仕事とも違った。敵でもあってもやたらと殺すなという命令に初めて従った時、俺は戸惑った。俺にこんな撃ち方ができたのかと、気づかされた。それからは、自分から進んで命を奪うことはしなくなった。銃を向けても、命を奪わなくてもいいということに気づいた。気が付けば俺はあいつからの仕事を断らず、半年も過ごした。殺し屋なんかやめて相棒になれという誘いに、何度も頷いてしまいたくなった。それがいかに危険なことか、自分自身で気づきながら。

あの男との仕事はイレギュラーに過ぎない。少し長引いているだけだ。まだ、俺は戻れる。吸い口まで燃え尽きた煙草を捨てもせず、俺はそれだけを考えながら街へ戻った。鬱々とした気分で街に着き、俺は古いアパートの階段を上がる。あいつのアジトとは別の場所、俺の意思で借りたものだった。久しぶりにドアを開けると、少しカビ臭かった。だが漂っているのは、その匂いだけではなかった。

「おかえり」

暗闇から聞こえたその声に咄嗟に銃を抜いていた。廊下の向こう側から、コツコツと革靴を鳴らして男が歩いて来る。

「勝手に入って悪かったよ。そいつを下ろしてくれねえかな」

何でここを知ってる」

セーフハウスを教えるほど、俺はこいつに絆されてはいなかった。

「ぬふふ、泥棒ってのは情報収集が命なのよ」

俺にどんどん近づいて来る。暗闇から抜け出たあいつは、毒気のない笑顔を見せていた。不覚にも、俺の殺気が薄まる。

「お前が勝手に居なくなったから探したんだぜ」

「何言ってやがる。お前とは仕事だけの関係だ」

プライベートに干渉される筋合いはない。身体の芯がぶれないよう足を少しずつ開き、心臓に視線を集中させた。何を油断していると、自分を叱咤するように。

「どうしてそう突き放すんだよ。俺がお前に何か酷いことでもしたか?」

「寄るな!」

わかっている。こいつは、俺を殺そうとしているわけでも危害を加えようとしているのでもない。ただ仲間として少し距離を縮めたいだけだ。だが俺はこの男が距離を詰めようとして来るたび、怖かった。何を考えているかわからないという理由ももちろんある。だが、そこまで毒気の強い男でないことはこれまでの仕事を見ていれば十分わかっていた。真の理由は、そんなことじゃない。 

「お前と慣れあうつもりはない」

俺の意思とは関係なく引寄せられる感覚が怖かった。俺とはまったくタイプの違う男だというのに、なぜ仕事の時には息がぴったりと合ってしまうのか。なぜ俺に殺し以外の銃を教えたのか。なぜこんなにしつこく俺に近づこうとするのか。そして俺は、すぐに心を許そうとしてしまうのか。少しでも油断すればこいつに全てを奪われそうになる感覚に、怯えていた。

「そうだな、仕事だけの繋がりだよな」

あいつは俺をなだめようと、両手を上げて優しく微笑んだ。

「新しい仕事の話。これなら俺と話してくれる? こないだみたいなつまらねえ仕事じゃないからさ」

そして、救うような言葉で俺を追い込んで来る。

「話してくれるよな?」

だが俺は、やはり嫌だと言えなかった。

お前となら、殺しの仕事をしなくていい。いつだって俺が見たことのない、新しい日をお前は持ってきてくれる。

そう思うと、自然と銃身を下げていた。

 

 

 

 

 

 

【臨界】 

ある時、次元は突然いなくなった。聞いてみれば、決闘に行っていたという。その後仕事に誘って、その仕事が終わってしばらく経つとまたいなくなった。俺の断りなしに行くのは次元にとっては当然なのだろうが、俺にとっては当然じゃない。俺が欲しいと思えば、それは俺のために存在してきたと同じことだ。とんだエゴだと自分でも思うが、今までそうやって生きてきた。何をどうしようと、俺のだけものにする。しかしそれを少しでも伝えようとするたび、次元は怯えた獣な態度を取り、銃を向けた。だからいつも、核心に触れることもできずに終わった。だがそれでも、俺は焦らずに次元といる時間を重ねた。いくら硬いダイヤでも、突然熱を加えればヒビが入ることと同じことだと知っていた。

  再度次元を見つけた時、丁度殺し屋の仕事を終えたところだった。人形のように強張った顔のまま、懐の薄い金を大事そうに抱えて寝床に戻ろうと歩き出す。バカだなあ、お前は。そんなに顔するくらいながら、殺し屋なんてやめちまえばいいのに。俺様のものになれば、そんな仕事しなくて済むんだぜ。お前だってわかってるくせに。そんなことを思いながら、後ろからついていく。

途中、次元はチンピラに行く手を阻まれた。そして数人の相手が飛び掛かって来た瞬間、物言わず銃を撃ち放つ。チンピラどもは悲鳴を上げて薄汚い路地に転がったが、死んではいないようだった。

「悪いな。殺し屋の時間は終わったんだ」

そう言って、また歩き出す。目を凝らすと、チンピラどものふくらはぎはだけが撃ち抜かれているようだった。骨にも当てず、治れば今まで通り歩ける程度の傷。その死んだ魚みたいな目になっても、お前の右腕は輝いている。本当に銃を持つために生まれてきたような腕前だと、再度思った。よくよく、欲しくなった。もう我慢は利かない。俺の欲が興奮して、髪まで奮い立つほどだった。

  数日経ってから、俺は再度次元のセーフハウスを訪ねた。あいつは唇を歪ませて実に嫌そうな顔をしたが、仕事を持って来たと言えば中に入れてくれた。

 

「次元、殺し屋なんてやめちまえ」

仕事の話が終わった後、そろそろ帰れと言われる前に切り出した。

「俺の仕事だけ受ければいい。これからは金にもスリルにもことかかないようにしてやるよ」

俺が向かいのソファーに座りながら少し微笑んだのに対して、次元は鋭く俺を睨んだ。

「俺の生き方に指図するな」

そんなこと言われても、見ているこっちが辛い。今にも銃を抜きそうな殺気にも、少し飽きている。

「指図したいね。だってお前は俺のものだもん」

「何勝手に決めてやがる」

不快そうに眉を寄せた後、少しずつ腕が銃を抜きやすい位置にずれていく。

「腕のいいガンマンは他にもいくらでもいる。女がいいなら、探して紹介してやる」

ピリピリとあいつから放たれる殺気に頬が痺れる気がした。

「要らねえよ。お前がいいんだ、俺様は」

手を伸ばしたいのを我慢して、ごまかしの微笑みを殺して、本気だと伝えるように帽子の影に隠れている目を見つめる。俺からその瞳は見えないが、次元からは見えているはずった。あいつは固く結んだ唇を少し解き、乾いた下唇を何か話したげに舐める。

「どうしてか知りたいか?」

読みやすい心を読めば、あいつはまた唇を閉じる。本当に硬い。もういっそヒビを入れて、そこから入り込むしかなかった。

「俺のために生まれてきたようなもんだからさ、お前は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【核心】

 「俺のために生まれてきたようなもんだからさ、お前は」

あの男がそう言った時、俺はその言葉を理解できなかった。何を言っているんだ、わけの分からないことばかり。

「一流どころの腕じゃねえ、唯一の腕さ。俺の背中を任せられる、唯一のな」

あいつは勝手に続けて、芯のある目で俺を見つめる。身体にヒビが入りそうな程重く鋭く、視線を外せば身体が崩れていきそうな気さえしてくるほど、強かった。

「おだてればその気になるとでも思ってんのかよ」

すぐに乾く下唇を舐め、無駄だと伝えるためにこれ以上出ない程低い声で返す。あいつはいつものように直ぐ笑わなかった。だんだんと不安になってくる。あいつが痺れを切らしたら、殺し合わなければいけない雰囲気だった。

「信じてくれねえの?」

問いかけて、また真に黒い瞳孔が俺を射抜く。俺は気が付けば、マグナムのグリップに手をかけていた。

信じられるかよ、そんなクセぇ言葉」

どこまでも嘘くさい男だ。それでも、嫌いにはなれない。なぜか信じたくなってしまう。それが何より怖い。この男に心を許せば、俺はきっとそのまま全てを奪われる。今までの生き方も、無味で静寂なはずのこれからも。そうして俺を救ってくれるとでも言うのか。そんなの、話が美味過ぎる。騙されて利用されるに違いない。理性がいくらそう警告しても、俺はその言葉を信じたがる。こんなのに何度も騙されて、そして殺してきたのを思い出せ。

そう自分に命令する前に、あいつは立ち上がって距離を縮めて来た。マグナムを構えた俺の腕を乱暴につかみ、膝をソファーの縁に乗せて心臓に銃口を押し当てる。

「なら撃てばいい。俺は消えるぜ」

消してみろと、あいつの目が言っていた。俺は恐ろしくなった。撃ちたくなどない。これはただの、俺の心の盾だ。

「悪ふざけはやめろッ!」

どっちが、とあいつが被せるように言う。銃を突き付けているのはこっちだというのに、追い詰められているのは俺だった。

「なら俺のものになりな。悪いもんは全部忘れさせてやるから、な」

背中に腕が回る。そしてそのまま、緩く抱かれた。何が起きているのか分からず呆然とする中で、ふと、匂いを感じる。それは闇夜の中香った興奮の匂い。死にかけて、湯気とともに感じた、この男の身体の匂い。そして太陽に似た、明日の匂いとぬくもり。一度は縋り付いて感じたいと思ったというのに、俺は慄いた。許してなどいないのに、奥に侵入されていると気づいた。

「やめろ!」

思わず左手であいつを突き飛ばした。仰け反ったあいつは倒れず、それ以上俺から離れてはくれなかった。

「俺はそんなの、求めちゃいねえ」

下手な嘘だと、自分でも分かった。俺は銃を下げたまま、俯くことしかできなかった。

そう。じゃあ、またな」

あいつはすんなりと立ち上がり、俺の部屋を出て行った。

脳にこびりついたあの匂いは、いつまでも俺に息をさせた。数日が経ち、再びあいつが仕事の話をしに来るまで。ただ、ひたすらに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【命日】

どでかいクリスマスケーキを逆さにしたような、クリスタルの絢爛とした輝きのイベントホールの下には、様々な色に着飾った男女が食事と会話を楽しんでいた。三階を吹き抜けにしたその部屋の隅で、俺はトニックウォーターを口に含む。船の中とはいえ、客船というだけあって揺れはなかった。普段の俺に、こんな豪奢な場所で楽しむような趣味はない。帽子を脱ぎ、いつもの黒スーツにフェンディのブルーカラーの柄ネクタイを合わせ、柄の悪いビジネスマンといったいで立ちでいるのも、俺の趣味ではない。オールバックに流した髪を撫でるふりをして、ノンホールピアスに偽装した無線機を叩く。

「いつまでチンタラやってんだ。そろそろ主賓が来るぜ」

『レディには準備がかかるの。もう少しでそっちに着くわ』

聞きなれない女の声が俺の鼓膜を震わせる。急げよとだけ言い、無線機をまた叩く。腕のサブマリーナを見れば、二0時まであと1分と差し迫っていた。ざわざわと男女と絢爛の喧騒が増す。何でもこの船のオーナーという男の新しい奥方は、どこぞの国のお姫様らしい。

『ブルーダイヤついでにいただいちまおうかね』

あいつが新聞記事を見ながらそう呟いたのを思い出す。 

「お待たせ、ダーリン」

するりと俺の腕に女の体が絡みつく。見やればグリーンのドレスで着飾ったショートヘアの美しい女が、黒い睫毛を俺に向けていた。

マーメイドラインとかいうそのドレスの腰を見れば、誰も中身が男とだとは気づかない。

「下準備は」

「もうばっちり。時間きっかりに暗くなるはずよ」

変装というより変身だと思わせるその姿に驚くのは、今朝終えていた。カップルしか入れないという、神聖なご結婚のお披露目パーティ。あいつはノリノリで女装を始め、俺が運転するレンタルのベンツの隣で口紅を塗りながら港まで来た。もし何も知らなかったら、ナンパまではいかずとも口笛を鳴らすくらいはしたかもしない。何もかもを知ってから見て出たのは汚い嗚咽だった。

二十時になった瞬間、ホールの入り口が開く。拍手喝采とともに、長身の男に寄り添うように白いドレスの女が歩いて来る。その胸にはペアシェイプ・ブリリアントのブルーダイヤが輝き、女の肌の白さと相まってこの部屋の何よりも存在を際立たせていた。女が俺の耳に唇を寄せ、内緒話をするように肩を引いた。

「じゃ、手筈は計画の通りだ。俺が姫様に近寄ったら、ダイヤを奪う。お前は?」

「停電に合わせて非常灯を撃つ。その後、避難用のボートでお前を待つ」

 俺も唇を女の顔に向け囁く。男同士でやれば目を引いてしまうこの行為も、偽装のおかげで気にせずに済んだ。

「ひひ」

突然下品な笑い声を出す女を見ると、豹のような目で俺を見ていた。

「なんだよ」

「いいや。女相手だと仕草が色っぽいと思ってよ」

「ふざけるな。こんなの芝居のうちだ」

行けよと作り物の尻を叩けば、えっちねえと笑いながら胸元からプラスチックの球を取り出す。しかしその瞬間に、女の手首に手錠がかかった。

「ありゃ」

二人同時にその手錠の先を見ると、やたらと体格の良い警備員が満面の笑みで鉄の手綱を握っていた。その背後では、私服警官らしい男女が俺達に銃口の先を集中させている。

「御用だ、ルパン!」

「よぉ、とっつぁん。その服似合うね」

ルパンと聞いて、ホールの歓声がどよめきに変わる。いっそこのまま混乱してくれれば、逃げるチャンスが増える。俺は腰の銃に手をかけ、警備員に扮した男に突き付けた。だが男は怯まず、コルトガバメントを突き合わせてきた。

「お前の変装が下手なおかげでいい目印になった。礼を言うぞ」

「チッ。そりゃどーも」

こちらに殺す気がないのを気取られているのを知り、どうするんだと女を見る。女は涼しい顔で手錠をかけた男を見ていて、ぽとりと球を落として降参だよと口を開く。女が球を踏みつけ、警部に手を引かれるとともに球から異音がする。

「いいのかとっつぁん。それ、煙玉だぜ」

「ふん、煙に巻いたくらいで俺から逃げられると思うな」

ぼしゅ、と予告通り球から煙が噴き出して来る。そのことに恐れおののいた客たちが叫び声を上げ出入り口へ殺到する。だがその煙はごくわずかなもので、とてもこの広い部屋を埋め尽くせるものではない。

「なぁんだ、不発か? お前とあろうもんが

「ありゃ、本当だ。次元ちゃん、頼むわ」

高笑いする男をよそに女が指示する。俺は言われた通り、その球に銃口を向け迷わず撃ち放った。爆音と共に、中から青い煙が上がる。一気に睡眠ガスが噴き出し、男の高笑いが止まった。そしてばったり倒れたのを見て、後ろに控えていた警官が慌てて口をふさぐ。そんなもんで防げるように作られちゃいねえよと思いながら、小型の酸素ボンベを咥えた。女も手袋を脱ぐようにひじから先の皮と手錠を脱ぎ、それを赤い唇の間に挟んだ。バツンとあいつが仕込んだタイマー通りに停電が起き、辺りは暗闇に沈む。こっちだと俺を非常灯の下に合図する声がする。デッキに逃げ出たところで、俺は振り返ってビルのように高い船橋を見上げた。

「おい、ダイヤはどうすんだよ。このまま逃げるのか」

「まさかあ。リトライすりゃいいんだよ」

すっかり男の声に戻り、窮屈そうにドレスを引きちぎる。その皮の下から男の体が覗き、俺のブラックスーツよりもいい仕立てのジャケットが月光に輝く。

「待て! ルパン!」

背後から野太い叫び声が聞こえ、振り返る。警官に肩を支えられた銭形が、コルトガバメントを俺の隣の男に向けている。まともに撃てるものかと鼻で笑った刹那、引き金が引かれた。俺の本能が、その弾丸の着弾地点を察知する。横に飛びのき、羽根のない鉄の矢に向けて俺のマグナムを撃ち放ったが、少し遅かった。弾き飛ばしきることができなかった45ACP弾は半分に削られて尚、俺の左腿に食らいつくようにねじ込まれた。

「次元!」

「かまうな!」

甲板に膝をつきながら叫ぶ。逃げろとボートを吊るしていた二つの金具を打ち壊せば、下から重い水飛沫の音が聞こえた。どう猛な牛の群れの如き警官が俺達に銃弾の雨を降らせて迫って来る。俺は倒れこむように伏せて、自分に当たるであろう弾だけをはじき返した。

「くそッとっつぁん!そいつ殺すなよ!」

白い手すりを乗り越え、海面の避難ボートに向かってあいつが落ちていくのを見届ける。エンジン音が聞こえれば、俺はホッと息をついた。気が付けば弾丸の雨はそのボートに向け集中砲火を食らわせる。俺はまるで無視されていた。当たり前のことだった。俺には、あいつのように人を惹きつける輝きはない。どくどくとスラックスを濡らし流れ出す血を見ながら、目を閉じようとした。だがそれは、肩を掴んだ太い指に止められた。

「おい、死なれちゃ困る」

それは警備服の上を脱ぎ、ガンホルダーを付けた警部だった。俺の体をひっくり返し、自分のネクタイで俺の腿を縛り上げる。

「医者を呼べ!大至急だ!」

もう睡眠薬が切れたらしく、先ほどまで肩を支えていた警官に命令をする。化け物かよと思いながら、その手が穴を塞いでくれているのを感じた。

「次元大介、とか言ったか」

俺の名前を知ってるのか、ありがたいね」

弾丸は腿を貫いたが、幸いにも骨には当たらなかったようだった。だが動脈に触れたらしく、血は止まる気配がない。

「助けなくて、いい。俺はアイツのことなんか、何も

「お前の意思は関係ない。あいつのことを吐かせるまでは死なせん」

「はっ、仕事熱心なんだな。アンタ」

俺はあいつのオマケに過ぎない、ということを痛感させてくれた。

「おい!医者はまだか!輸血袋を持ってこさ……おいけつえたは

どんどん音が遠のいていく。いいから放っておいてくれ、と声のない言葉を出す。それから先の意識は、もうなくなっていた。

 

目覚めると、低く白い天井があった。吸入器に息苦しさを覚えて外し、起き上がる。そこは何の変哲もない病室だった。窓に鉄格子がはまり、手首に手錠がはまっていること以外は。これじゃあ逃げ出せないと俺はすぐに諦めて、水欲しさにナースコールを押した。だが、しばらくして入って来たのはトレンチコートの男だった。

「顔色がまだ悪いな」

俺の顔を見て口を開く。

「そいつはもともとだ」

「そうか、明るいところでお前を見たのは初めてだからな」

知らなかったと、背のないパイプ椅子に座りにやりと笑う。

「起き抜けに事情聴取なんて勘弁してくれよ」

背を向けるように身体を寝かせ、目を閉じる。

「そいつはできん相談だ。取り調べ室に連れていかれないだけマシだと思え」

肩をつかまれ、無理やり上体を起こされる。乱暴にパイプのベッドヘッドに肩を付けられ咳き込んだ。

「まず一つ目だ。ルパンはどこへ逃げた」

「知らねえよ」

真っ赤な嘘をつく。俺達は盗みを終えたら、湾を抜けた先の貸別荘へ逃げる予定だった。

「お前にあいつを庇う義理があるのか?」

「ああ、あいつに結構貸してんだ。そいつを返し終わってたら、なんでも吐いてたさ」

ふざけて返すと、太い眉尻を釣り上げた。

「義理堅い奴だな。あいつに何の恩がある?」

「別に、ささいなことさ」

のらりくらりが通用すると思うな」

殺意のこもった目に反射的に身構える。とはいえ警官の尋問なんざ、マフィアの拷問に比べたらお遊びみたいなもんだ。いくらでも付き合ってやると笑みを返すと、丸みのある目が剃刀のような鋭さを持つ。

「舐めてるな、貴様」

ああ、アンタなんか怖くないね。そう呟けば腿に掌が被さり、傷口に親指が押し込まれた。傷が開くに痛みに身体が跳ね、離せと手を掴む。だが、巨木のようにビクともしない。じわりと白い布に血のシミが滲んで来る。痛みに呻いた瞬間、手が離れた。

「まあいい。いずれ全部吐かせてやる」

ぜえぜえと息をしながら、俺の血がついた手を服で拭う男を睨みつける。あいつめ、とんでもないのに好かれてやがる。そう思うだけで精いっぱいで、俺は息も絶え絶えにもう一度ナースコールを押した。男とすれ違いに、男の看護師が看守とともに駆け込んで来る。

「しっかり手当してやってくれ」

銭形は嫌味っぽく言いながら、姿を消した。

 

次元大介が捕まった。

警察病院の間取りを調べるため、周辺の闇経営の酒場をめぐるたび、その言葉を聞いた。

なんでも、ルパンを庇って見捨てられたらしい。

だろうなあ。あいつはルパン好みの人間じゃねえ。

使い捨てだったんだろうな。人の見る目のねえやつ。

そんな言葉を聞くたび、俺は苛立っていた。そっちのほうが都合が良いとはわかっていても。

「マティーニ」

目つきの悪いマスターに言いつけ、懐からユーロ札の束を出した。チップにしても多過ぎるそれに、男は目を光らせた。どんなバーテンダーがいいんだと、金を受け取る。

「青い制服の似合う奴にしてくれ」

俺がリクエストすると、恰幅のいい四十代頃のバーテンダーが出て来る。

「警察病院の間取りを教えてくれ」

小声で話せば、バーテンダーは俺を見つめる。ああ、あんたルパン三世か。相棒を助けてやる気になったのかい。余計な事を言うなとワルサーを懐から向ける。失礼と冷静な顔で謝り、俺にマティーニを出す。すぐに飲み干し、白いコースターを引き抜いて懐に入れる。そして、この情報屋が警察にタレ込むのを阻止するために、出っ張った腹に麻酔薬入りの注射針を刺した。ばったりと倒れた男に慌ててマスターが近寄る。

「大丈夫か? 疲れてたんじゃねーの」

心配するそぶりで話しながら、マティーニ代のコインを机に転がす。殺気を込めた目で見れば、何も言われはしなかった。

  その間取り図は、よくない方の意味で役に立った。助け出すには、厳重にされ過ぎている。移送の時も、銭形が出張って来るとのことだった。不二子に力を借りようかとも思ったが、次元と繋がりがあるのは今のところ俺だけで、あいつのためなら捕まってもいいと思うような仲間ではない。どうしたものかと頭を巡らせる。失うという選択肢はない。俺が目をつけたからには、それだけの価値がある。それに、俺を庇って怪我を負い、捕まるだなんていじらしい真似をしたあいつを裏切りたくはない。

そう思いながら、病院の向かいのホテルから次元がいるであろう部屋を双眼鏡越しに眺めて探した。朝になってもカーテンの開かない部屋は、一つだけあった。あそこにいる。そう確信した。救出は困難だが、決して不可能ではない。看護師になりすます、警察官になりすます。成功率はどうであれ、いくらでも手はあった。

だが、それではダメかもしれない。上手く助け出したとしても、次元はろくに礼も言わないで数週間後には姿を消して殺しの仕事に出る。距離が縮まる度、俺から離れようとする。相棒になれと言っても、自分自身でつけた枷に身動きも取れず、一人苦しむ。あいつ一人でそれを断ち切ることができないというのなら、もう、俺が楽にしてやるしかない。

「お前もそれを待ってるんだろう」

固く閉ざされたカーテンが、少し風に凪いだ。ベッドの端だけが、かろうじて見えた。

 

三日後、俺はまた鉄格子の空を見ていた。開かされた傷はまた塞がれ、モルヒネのおかげで痛みもなく、ふわふわと意識が揺らぐ。銭形は毎日やってきて、無駄な取り調べを続けた。あいつは俺に何のメッセージも寄こさなかった。

そのうちに俺の傷は癒えて、監獄へ移されることになった。オレンジのつなぎの囚人服を着せられ、移送車の鉄格子の中から外を見る。あざ笑うかのような青空に、自由な鳥が飛んでいる。雲を押しのけて輝く太陽がひと際眩しく、目を閉じた。番号で呼ばれながら、うだるような暑さの砂地に足をつく。てっきり相部屋に通されると思ったが、入れられたのは独居房だった。簡易ベッドに、トイレの他はなにもない。クーラーの効きも悪かった。もしかしたら、組んでいた仲間が助けに来るかもしれない。そういう理由らしいが、誰も、俺さえもそんなことはないだろうと思っていた。あいつが危険を冒してまで助けに来るほど俺に価値を見出していると、そんな自信過剰なことを思うことはできなかった。結局、俺は取り換えの利く道具でしかない。

運動で外に出されることもなく、食事も差し込まれるだけで毎日決まった刑務官の男としか顔を合わせない日々が続いた。囚人虐待だぜ、と何度か嫌味を言ったが、それが改善されることもなかった。囚人同士交流があれば、煙草だの何だのを仕入れることもできるだろうに。

俺から全てを奪ったあいつの存在をたまに憎らしく思いながらも、俺は鈍い時間の中で、今はないマグナムを分解し、掃除するという遊びを繰り返していた。それに飽きたら、架空の敵を脳に描き、悪条件を想定してトレーニングする。無駄と知りながら、入れ墨のように全身に刻まれたそれを、忘れることはできなかった。俺はずっと、他人の寿命を奪うことで生きながらえてきた。重く、苦しく、それでもやめることができない。生活のために続けた殺しは、いつしか俺から明日を奪った。そして、それこそが俺にふさわしい罰だと自分でも受け入れていた。はずだった。

 「三四八一番、面会だ」

一週間が経った頃、声がかけられた。面会に来るような奴はいないはずだと思いながら向かうと、国の指定で来た弁護士がプラスチック板の向こうに居た。あっち側にもやる気はなく、俺も適当にしてくれと返すだけだった。その中で覚えているのは、ニューヨークで派手にやっていた時の罪で、電気椅子送りは免れないということらしかった。

裁判の日、あの警部が検察官側にいた。こいつはルパンの仲間で、助けに来るのを待てばルパンも捕まえられる。だから死刑の執行を遅らせてくれ。そう訴えたおかげで、俺の余命は七日から十四日に延びた。俺が裏へ連れていかれる前に、警部は俺を呼び止めた。

「あいつが殺すなと言った。だからあいつは必ず来る」

そうかい、とだけ返し背を向けた。無駄な期待をさせないで欲しかった。

【追憶】

死刑が確定した一日目、俺は宗教を聞かれた。そんなものはないと伝えたら、中年の牧師が来た。悔い改めることに遅過ぎる日はありません。その言葉に、それができるなら今ここにはいないと嫌味を返した。プラスチックの板越しに、白人の男はブラウンの髪を撫で、私に似合う帽子を知らないかとおもむろに尋ねた。俺はモールにでも行けばいくらでもあるさと言ってやった。

 

二日目、また牧師が来る。俺は話し相手を得たことが嬉しく、初日よりかは突き放さなかった。

 

三日目、牧師は俺に聖書の一説を読んだ。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。俺が見捨てられたと知ってのことだった。哀れみなど大きなお世話だと一蹴し、それきり一言も話さなかった。

 

四日目に牧師は来ず、隔離された酷く狭い運動場に出された。適当に体を動かしたがが、銃がなければ準備運動にもならない。あいつの影を見ることもなかった。

 

五日目にはリクエストした雑誌とワンカートンのポールモールが届けられた。下品なゴシップ雑誌を見ながら煙草を吸うだけで、娑婆にいる時と同じ心持になれた。あいつからのメッセージはどこにもなかった。

 

六日目、また牧師が来て俺に悔い改めよと言う。改めることなんかないと返せば、君は何をやり遂げてそういうのかと尋ねられる。俺は帽子のない髪を撫で、少し考えた。俺は何もやり遂げてなどいない。ただ、無我夢中で生きてきた。中身なんて殆どない。そう思えば、さすがに虚しい気分になった。

 

七日目、急に自分の人生を振り返るようになった。野良犬のようにスラムを生き抜き、食べていくために戦場で傭兵なんかをやった。その時の経験を買われて暗黒街へ入り、誰にも劣らないガンマンとして生きた。誉れが呪いになるのは早かった。人殺しのプロとしての生活には、彩もなければ、輝きもない。どんな時でもただ、死にたくないということだけが俺の生きる理由だった。ただ、あいつとの仕事の時だけは、俺はそれを忘れて銃を撃った。脳裏を掠めるあの横顔を散らし、その日は眠った。

 

八日目になって、雑誌と煙草が追加された。架けたい人間がいるならと電話室に案内されたが、生憎誰もいない。あいつに恨み言の一つでもいってやろうかとも思ったが、繋がるはずもないと諦めた。

 

九日目、牧師が来る。君は何をやり遂げた、と再度問われた。目的もなく生きてきたのに、やり遂げるなんてことが叶うはずもない。俺がそう言うと、やり遂げたいと思うことは必ず、男に生まれたならあるはずだと青い目で俺に微笑んだ。ご清潔な牧師にしては、言うことが俗だと俺は笑った。

 

十日目、執行の日が間近になり、俺は二人の刑務官が立つ終末の部屋に移動した。あの牧師のように、会話をすることはなかった。

 

 十一日目、俺がやり遂げたいと思ったことはなんだったかと考えた。あるいは生きること以外に、俺が支えにしたものがあっただろうか。悪夢を見るたびに自分が殺した人間の亡霊に追われ、いずれ怯えながらぼろくずのように死んでいくとばかり思っていた。女にも、酒にも癒しきれない未来への諦めが様子を変えたのは、あの男と出会ってからだった。抑えきれない胸の高鳴りと、生きているという充足感の匂い。あいつと出会ってから、確かに俺は明日を待っていた。明日があるようにと祈るのではなく、当たり前に来ると信じていた。そして、それはあいつが引き連れて来るのだと信じてしまっていた。それを俺は最後に自分の意思で守った。自分の意思を感じたのは、前がいつかも思い出せないほど久しぶりだった。

そうか、と勝手に独り言ち、その日を終えた。

 

十二日目、昨夜考えたことを何度も繰り返した。牧師がやってきて、見つかったかと俺に尋ねる。俺はそうかもしれないとだけ返した。そして、アンタなら最後の晩餐は何にすると俺から尋ねた。牧師はワインにパンと答えた。神の血、神の肉だなんて物騒だと言ってやった。人は誰しも奪わなければ生きていけない生き物だ、たとえそれが神だろうと。牧師の言葉にしてはやはり物騒だった。

 

 十三日目、俺は最後の食事にとびきり高級なバーボンをリクエストした。刑務官から何か最後に食べたくはないのかと尋ねられたが、一人で食う飯は不味いと返したら黙った。

  十四日目の午前1時三0分、俺は電気椅子に座っていた。あの牧師が横に立ち、よくわからない救いの言葉を語る。その最後に、言い残したいことは考えてきたかねと俺へ尋ねた。

「ああ、あんたのおかげで気づくことがあった。その礼だけだ」

俺がそういうと、牧師は何に気づいたと尋ねる。それは俺の中にしまっていくものさ、と返せば、微笑むだけで一歩下がった。その後、刑務官が俺に目隠しをする。本当ならばそんなものは欲しくないのだが、目玉のないまま地獄に行くのも嫌だった。

無機質な鉄の匂いを嗅ぎながら、叶うことなら、あの脳に響く香りが深まることを、生きているという感触をもう一度感じたかったと思い始める。それをもたらすお前を失いたくなかったから、あの時お前をかばった。俺のために、お前を守った。強いエゴを、自分自身でも感じた。もし、今ここでお前が相棒になれと言ったら、俺は戸惑いなく頷ける。紛れもない俺の意思で、お前に全てを奪われることを受け入れられる。お前がいなくなった時は、俺に明日はないものだと、覚悟を抱ける。

どんだバカだな、と自分を笑う。今更受け入れたって、もう遅い。

「最後に、彼へ祈りの言葉を」

静寂の中、牧師の声が聞こえた。そして近づいて来るのがわかり、俺は顔を上げた。牧師から香るものが、どこかで嗅いだような匂いだと思う。ムスクのような、甘さの少ない精錬な香りの中に、ジタンの尖った煙が棘を立てている。それが男っぽい体臭と混ざって、異国に降り立った時と同じ感覚に陥る。ああ、あいつの匂いだ。だが、これはただの偶然だ。あいつが助けに来てくれたなどと、無駄な希望を抱かせないで欲しい。ありもしないこれからを、勝手に思い描かせるような、残酷なことを。

私が一番好きな言葉だ。牧師がそう言った後、俺の耳元へ唇を寄せた。

『人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない』

ああ、アンタは俺を称賛してくれていたのか。そう思ううちに、牧師が離れていく。そして頭から水をかけられ、俺は息を止めた。

恐ろしかった。深く吐いた息は震えた。嫌だ、死にたくない、助けてくれ。助けてくれ、ルパン。俺に明日を連れてきてくれ。

どの言葉も、恐怖で締め付けられた喉のせいで音がなかった。

「執行」

その言葉の刹那、電力が全身に流れて身体が強張った。凄まじい痛みにもがき、脳が沸騰していくのを感じる。また俺は裏切られてしまった。だが、お前が必要とした俺はあの時で終わったのだと思えば、それで納得できた。むしろ、少しでもいい夢を見せてくれたことに感謝さえしている。

一瞬、苦しみの中に異様な幸福感と空中に浮き上がるような感覚を味わう。ああ、死ぬらしい。あんなに死にたくなかったというのに、訪れて仕舞えば怖くない。いつか、またこの世で会うことがあれば。その時はお前のものにしてくれ。

最後のエゴを思った時、俺の意識は溶けて消えた。

 

 

 

 

 

【誘拐】

「次元、おまたせ」

遺体を安置する部屋で、俺はそう言いながら巨大なアルミの引出しの取っ手を引いていた。牧師の変装は解き、いつもと違って跡を残さないように残骸を懐にしまっていた。裸のまま気絶している腕に、滋養剤を注射針で流し込む。電気椅子は改造済みだったとはいえ、死んだと見せかけるためにかなりの出力になっていた。

「ひでえことしちまったな。お前は俺を助けてくれたのによ」

もっと早くに助け出すこともできた。しかし、こうでもしなければこいつは自分の本心を受け入れる気にはならなかっただろう。

死の直前、隠してきた心に素直になる。人誰しもに訪れる、その瞬間でなければ。

「さぁてスノウホワイト、林檎の欠片は取ってやったぜ」

今度こそ、俺に答えてくれるよな。

痩せた身体にジャケットをかけ、腕に抱える。氷のように冷たい身体を感じながら、額にキスをした。

 

 

 

 

 

【明日】

俺は目を覚ました。まずはそのことに驚きながら、車の振動と温い風を感じていた。先日あいつが盗んだ金で買ったイエローのベンツの助手席に、俺は毛布にくるまれて座っていた。車の通らない、夕暮れの田舎の海岸線を、どこかへ向かって走っていた。

地獄にしちゃ、いい風景だな」

掠れた声で、隣を見ずに口にする。

「ドライブデートに持ってこいだろ?」

運転席で、ジタンを咥えた男も俺を見ずに口を開いた。

「どうして俺を助けた」

素直に疑問を口にする。お前が助けに来るほど、俺に価値があったというのか。

「右腕を奪われたから取り返した、それだけのことさ」

さらりとあいつは答えて、俺の方へ首を向けた。

「お前こそ、どうして俺のこと庇ってくれたわけ?」

夕日に陰った姿は、まるで後光がさしているように見える。

「…俺がそうしたかったから、それだけだ」

「ふーん、そう」

そう軽く答えた。もう答えを知っていたかのような口ぶりだった。

あいつは燃え尽きたジタンを灰皿に擦り付けて、俺に手を伸ばした。髪の一房に触れられて、隣を見る。

「最後に聞くぜ」

手を離し、またハンドルを握る。俺はあいつの眩しい横顔を見ていた。

「次元大介として生き返るか?それとも別の誰かとして生き直すか?」

どっちを選ぶのも自由だ。

せっかく死んだんだ、別の道探すって手もあるぜ。あいつはそう言いながら視線を前に見据えている。

自由も何も、この名を捨てたところで俺に新しい生き方など見つけられない。仮に別の人間として生きたって、いずれは次元大介という男に戻るだろう。

「聞くまでもないだろ」

俺がそう答えると、あいつはそうかとだけ答えた。その後は何も話さず、沈黙を共にする。

 

「なあ」

先に痺れを切らしたのは、俺の方だった。

「相棒の席は、まだ空いてるか」

自分から言うのはやたらと恥ずかしかった。何も恋人になろうってわけでもあるまいにと、毛布に首を埋める。

あいつがちらりと俺を見たのがわかった。

そしてにやけたように笑う横顔も、目の端に写っている。

いいや、埋まってるぜ」

心臓が凍りつく。

俺はYESとこいつが答えてくれるものだと思っていた。今さら捨てられるのかと顔を見ると、ハンドルから離した左手が俺に伸びてきていた。そして俺の肩にゆっくり手を回した。薄い毛布越しに伝わる指先に力が柔らかい。

「お前がもう座ってるからな」

誰も開けさせたりしないさと独り言のように呟き、指先に力を込めた。

クセぇ奴」

顔を背け、夕日に染まっていく海を見る。

海に沈んでいく燃える星は、夜をその尾につけて、俺のところへ明日もまた来るのだろう。

隣にこの男がいる限り。

この男が離れた時、俺はどうなってしまうのか。それは未だに分からず、怖かった。

それを考えるのは、その時で来たらで良いだろう。

今は夢を見る時だ。

そう思うだけにして、俺は瞼を閉じた。

                                                         END