次元大介の鎮魂歌-3 end

**2**
「俺もヤキが回ったな」

海王博物館と名のついた、細長い弁当箱のようなコンクリートの箱を見下ろす。
箱の真ん中には筒がついていて、その天井はドームになっている。
まるでインターホンのような形だ。

博物館はここからは小さく、その周囲は怒れるパトカーの赤い海だった。
双眼鏡で覗くと、ルパン逮捕のエキスパートとかいう男が入口の前で仁王立ちしている。
ギョロギョロとした目に、そのいかつい顔に不釣り合いな下まつ毛が目立つ。
薄茶色のトレンチコートが、春の冷たい夜風にはためいていた。

夕陽も彼方へ落ち、東京のドブ臭い夜がまばゆさを放つ。
博物館が丁度見えるビルの空き部屋で、壁一面のガラス越しにそれを見ていた。
ガランとした、元オフィスらしきフロアには、俺しかいない。
暇つぶしの煙草の吸い殻の塵は今や山になりつつある。
指定時刻は書かなかったはずなのだが、ニュースをみると今日の22時にルパンが来ると報道されていた。
ルパンは盗みの時刻を必ず守る。
インタビューに答えていたまつげ男の言葉を俺は信じるしかなかった。
もう22時まで、あと5分しかない。

懐から一枚の紙切れを取り出した。
湊から貰った小切手だった。
俺が受け取るのは湊自身の金ではなく、支配下にある子会社の金らしい。
とはいえ、あの時は湊から小遣いは貰っていたし、金に困ったことはなかった。
貯蓄をしたいと思うほど堅実でもない。
まあ、こいつは後でいいかとまた胸ポケットへ戻す。

長い針が動いたのを見て、試しに付近を、レンズを覗き探す。
ビルの上には誰もいない。
地上にも、怪しい人間はいない。

湊の葬式が終わってしばらく後、悩んだ末に、あの空欄に漆黒のセイレーンと書き込んだ。
深夜のバーで、マスターに万年筆を借りて、適当に書いた。
来なかったら、俺はどうすればいいのだろう。
このまま一人博物館に突っ込んで、いっそあのむさ苦しいまつげ男に捕まってみるか?

ふふ、と自暴自棄な考えに自分を笑う。
その自分のかすかな声に混じって、背後から衣擦れの音がした。

「待った?」
振り返りはしない。
足音が俺のすぐ隣に来る。

目の端で見れば、奴は赤いジャケットを羽織っていた。
その他は変わらず奴のスタイルのままだったが、雰囲気だけは微妙に違う。
俺とは違う世界を生きている、という匂いがするといった方がいいのかはわからなかったが、盗みを目の前にして男の空気は変わっていた。

「本当に使ってくれるとはねえ、何かあった?」
「…てめえと早く縁が切りたくてな」
ぬふ、相変わらず冷たいなあと男は口の端を丸めて笑った。

「おーおー、銭型のとっつぁんまーた張り切っちゃてえ」
小型の望遠鏡を覗きながら、軽口を叩く。

「おい」
「なァに?」
「ダイヤは、俺はいらねぇ。好きにしろ」
「売るなり、煮るなり、焼くなり、捨てるなり?」
「砕いたっていい」
ふぅ、と白い息を吐くと、俺の目の前に霧ができる。

「なあ、次元。一つだけ約束してくれ」
獲物を目の前にして、男の声の波長も変っている。
「なんだ」
「盗みが終わったら、一杯付き合えよ。奢るからさ」
男が俺と同じものを見下ろした。
「…気が向いたらな」
俺の気が向いたらは、絶対に行かないと同じだ。

「あと2分しかないぞ。こんなところで油売ってていいのか」
時計の針は誰も待たない。
予告まであとわずかであるにも関わらず、男はのんびり構えていた。

「初めてのオシゴトで焦ってる?安心しろよ、あの博物館まで30秒もかからないからさ」
「お前、気は確かか?」
このビルを出るのにだって1分はかかるし、ましてや博物館までは走っても10分かかる。
俺はそもそも傍観するつもりで来ていた。
「マトモな奴に出来る稼業だと思うか?」
クスリと笑う男からは、危険な匂いがする。
「…お前を見てれば分かる」

俺の言葉に男が低く笑い、懐に手を入れた。
そして、古い銃を取り出した。

「時間だ、行くぜ」
その言葉が終わると同時に、奴の銃が火を吹いた。
ガラスは砕け散り、風が急激に流れ込む。

その風に一瞬ひるんだ瞬間、俺は自分の体が宙に浮くのを感じた。




***3***

俺のワルサーが窓ガラスを砕き、強い風が吹き込んだ瞬間、次元が帽子を押さえてひるんだ。

その無防備な身体を右腕に引っかけて、俺は窓のへりを蹴った。
高層ビルから飛び降りたのに気づいて、次元はパニックになる。
俺にしがみつきながら、バカだの、放せだの、お前と心中はごめんだのと騒ぐ。
「へーきだって、ほら」
バサリと、仕込んでいた小型のグライダーの羽を広げると、大人2人でも十分に支えるほどになり、高スピードで博物館へと向かっていく。

「やめろ、俺は行かない、下ろせ!」
俺の胸を叩き、嫌だと抵抗する。
だが、あの予告状を出した時点で、もう逃げられない。

「今更引き返せないぜ、次元」
「一度盗みたいと思ったら、もう戻れない」
にこ、と微笑んでやる。
次元はぐっと何かに詰まったような様子を見せた。
だが、その詰まりを吐き出すことはなく、ひたすら帽子を押さえながら、俺に必死にしがみついていた。

「…どうやって盗む」
風に流され、博物館の屋上に降り立つ。
予告まで、あと5秒。

「そりゃあ、泥棒らしくこっそりさ」
言いながら、俺はとっつぁんの居る博物館の正面に、黒いプラスチックの塊を投げた。
そのプラスチックはもちろん、ブリリアントカットだ。
地面に叩きつけられたそれは、壊れると同時に黒い煙を吐き出し、黒い霧が入り口を覆った。
「よぉ、とっつぁん!ブラックダイヤは頂いていくぜ」
グライダーにつけてあった風船人形にガスを注ぎ、夜の彼方へ飛ばす。
銭型の動きは見えないが、後方の大多数のパトカーがダミーを追いかける。

「どこがこっそりなんだ…」
次元があきれたように彼方へ流れていく人形を見ている。
「俺のこっそりは、ド派手にってことさ」
行くぜ、と黒スーツの肩を叩くと、次元は少し後ろから俺を追った。
ヤクザがオーナーの博物館、とはいえ、セキュリティは甘めだった。
まあそんな奴らの物に手を出そうとする命知らずなど、俺達くらいというのもあるだろう。
オーナーとしては正直警察なんかに守られたくないだろうが、きっと銭型の猛烈な説得に折れたに違いない。

赤外線を張り巡らせた館内も、天井の隙間を行けば引っかかることもない。
「ここだな」
お宝のあるポイントで、天井にコンパス型のカッターで丸く穴をあける。
「待て、2人いる」
ブラックダイヤの部屋の前には、2人の警官が立っていた。
2階の展示室の手前は、大きな階段によって1階へと導かれている。

彼らが応援を呼べば、盗みは失敗に終わってしまうかもしれない。
「へーきへーき、俺を信用して」
ウインクをしながら、ピンク色のボールを手品の要領で取り出す。
それを真下に落とすと、睡眠ガスが10秒ほど煙のごとく広がった。
見張りは膝から崩れ落ちて、ポーンは潰れた。

「殺したのか」
「俺様はね、殺しはやらないの」

ロープを垂らし、ブラックダイヤが眠る部屋の前に降り立つ。
次元も俺の後に続いて、倒れた見張りに目をやる。
部屋に扉はなく、アーチの入り口だった。
だが、その部屋の中は異様に暗い。

まるで底のない落とし穴のような、遙か彼方までこの暗闇が続いているようだった。
ライトで部屋を照らそうと小型ライトをかざしたが、丁度部屋と廊下の境目で壁に突き当たったように光が途切れる。
暗視装置でさえ、結果は同じだった。
この部屋は、星さえない闇の宇宙につながっている。

光を吸い込む、とは聞いていたが、ここまでとは。
「どーしたもんかねぇ」

この様子だと赤外線センサーは張られていないだろう。
だが、重量センサーや熱感知装置はあるかもしれない。

「もう手詰まりか?」
次元がポケットに両手を突っ込んで、つまらなそうに俺を見る。
「まーさかぁ。どこにお宝があるかくらいは直ぐにわかるぜ」
懐からレジのバーコードリーダーを取り出し、部屋に向けた。
分厚い携帯に繋げて、システムを操作すれば部屋の凹凸が映し出される。
ゴーグル型は時間がなくて作れなかったのが残念だ。
「なんだ、それ」
「昨日作った発明した超音波装置さ。面白いでショ?」
台座のガラスケースらしきシルエットに、ダイヤの輪郭が見える。そして、部屋の奥には2人の人間が息を潜めて俺たちを待っていた。
「次元」
ハンドサインで、2人居ると教え、2つの麻酔弾を投げる。
「あと4発はお前の弾を撃て」
「…わかった」
従順に弾を入れ替えて、ガチャリとリボルバーを戻す。
姿の見えないものを撃てと言うムチャも、次元には通用しないらしい。
見えないと当たらない、プロとしてそんな弱音は吐かない。
そんな銃の構えに、素直に笑ってみせる。
「ダイヤは俺に任せろ」
ワルサーをホルダーから取り出し、ガラスケースのある方に向ける。
「いくぜ」
引き金を引けば、ガラスの砕け散る音が爆発した。
そのままお宝に向かって駆け出すと、一瞬で遙か闇に包まれた。
かしましい警報が鳴り響き、同時に男の雄叫びが2つ俺に向かってくる。

それにかまわず、手を伸ばしダイヤを掴んだ。
背後で大きな発砲音を聞きながら、スーパーボールほどの宝石を、リングケースの中に閉じこめる。
すると闇は消え、振り返れば警官らしき男が2人伸びていた。
ダイヤが光を解放したおかげで、ガラスケースの真上にあるドームの窓から月の光が射す。
窓の位置は高く、10メートルはあった。

「さーすがぁ」
「フン」
こんなくらいなんでもない、と次元は鼻を鳴らす。

「ルパーーーーーーン!!!!」
聞き慣れた声が博物館全体に響いた。
トラップから戻ってきた銭型が、拡声器で俺を呼ぶ。
「もうどこからも逃げられんぞ!既に空からも地上からもお前を取り囲んでいる!」
「よお、とっつぁん、熱烈な歓迎ありがとね~!」
「おい、悠長に挨拶してる場合かよ」
わらわらと入り口から警官達が駆け込み、俺と次元を取り囲む。
そして一斉にぞろりと青い制服達が銃を向ける。

「はは、歓迎してもらって悪いんだけっどもよぉ。
俺様この後デートだから、とっつぁん達との追いかけっこには付き合ってあげられないんだわ」
「この密室からどっから逃げるってんだルパン?どこにも逃げ場はないぞ、観念して今日こそお縄を頂戴しろ!」
銭型は部下をかき分け、部屋の前までやってきた。
ジャラ、と手錠を取り出し、ニヤリと得意そうに笑う。

「あいつの言うとおりだ、どこから逃げる」
「かんたんかんたーん、あの窓からさ」
俺がドームの上のガラスを指さす、次元は呆れたように俺を見た。
「バカか、あれは20ミリもある防弾ガラスだぜ。ダイナマイトかプラスチック爆薬でもない限り不可能だ」
次元の不可能という言葉を、俺は嗤った。
同時に、ドームの真上に報道のヘリがけたたましい音を立ててやってくる。

「おい!なんだあのヘリは!今直ぐ退けさせろ!」
銭型が唾を飛ばしてヘリを指さす。
ヘリはホバリングし、ゆらゆらとその陰が満月の光を遮る。

「次元、お前に不可能はないぜ」
「…何故だ」
「俺がいるからさ」
ウインクを飛ばし、無防備な腰を寄せた。

「次元、鉤を撃て!」
4つの鉤のついたワイヤーを窓に飛ばし、高速でリールを巻き上げと、速いスピードで男2人が宙に昇る。
「ッ、どーなっても、知らねーぞ!」
次元が伸ばした右腕の先にあるマグナムが、4回鉄のマグマを噴き上げる。
弾丸は鉤を突き破りガラスに食い込み、大きな亀裂を入れた。
俺が鉤の中に仕込んでいた爆薬が発火し、2秒後には、小さな爆発が起きる。
ビシリ、とガラスが曇るような細かい亀裂が全体に入ったが、ガラスはまだ砕けない。
ワイヤーも爆発によって千切れ、ふわりと二人の身体が銭型の引力に捕まった。

「ルパン!」
次元が焦った声で俺を呼ぶ。

俺は窓に向けワルサーの引き金を引いた。
ガラスの砕け散る綺麗な音と小さなクリスタルのような塊が、空から降ってくる。
弾丸は、ガラスを突き破った後、ヘリの腹に食い込んだ。
空に向けたワルサーが、宙に俺と次元を繋ぎ止める。

ゆらゆらと揺れながら、どんどん天へと上昇する。
ワルサーの一つの弾丸には、特性のピアノ線を仕込んでいた。
ヘリと俺達を繋ぎ、ヘリが上昇すれば俺たちも銭型から遠ざかる。

「ルパァーーーーーン!待て!逃がさんぞーー!!」
「じゃーなとっつぁん!漆黒のセイレーンは頂いていくぜ!」
「待て!その男は何だ、新しい仲間か!?」
銭型は月明かりに照らされて、ようやっと次元の存在に気づいたらしい。
こっそり一枚の紙を放って、大声を出す。
「そーよぉ!俺の相棒!これからよろしく頼むぜとっつぁん!」
「おい、勝手に…!」
「はいはい、その話は後でじっくりしよーな」

気がつけば博物館から遠く離れ、濃厚な夜が近づいていた。




[newpage]
◎-◎-◎-◎-◎

「くっそぉ~まんまと逃げおって!誰だ!ガラスはダイナマイト10本でも壊れないとか言ったのは!」
ぽっかりと空いた天井の穴を睨みつける。
何かルパンの手がかりが落ちていないかと、砕けたガラスを蹴散らす。
するとダイヤのあった台座の下に、一枚の写真が落ちていた。
黒い靴、黒いスーツ、黒く長い顎髭、黒い髪、黒い帽子。
見事なまでに真っ黒な男が、煙草を咥えていた。

あの時一緒にいた男か、と記憶をたどる。
余りにも存在感が薄く、逃げる時ルパンに縋ってぶら下がっているのを見るまで全く気付かなかった。
だが、思い出せば奴の腕は確かだった。
あの不安定な状態から、ルパンの示したポイントを撃ち抜き、あの防弾ガラスに致命的なヒビを入れて見せた。
ルパンがしかけた爆発もあったが、あのマグナム弾が亀裂を入れなければ焼け石に水程度の威力だった。
「おい、こいつが誰か、大至急調べてこい」
写真を部下に渡し、署に走らせる。
無線にルパンのヘリの行く先を尋ねたが、南に向かっているが追いつけないという報告しか来ない。

奴は本当に新しい相棒なのか。
それともたまたま雇ったバイトの部下か。

わざわざ写真を残して行ったということは、俺に紹介でもしているつもりなのだろうか。
取りあえずルパンが気に入っているのは今日の様子で分かったが、銃の腕以外に取り得はなさそうだった。
そこが一番気になる。
値打ちなどほとんどない、ブラックダイヤを盗んだ理由もわからないが、それ以上に気になる。

ルパン自身が、他人を選ぶことはほとんどない。
ルパン以上に賢いものも、力を使えるものも、この世界には居ないからだ。
相棒も過去に居たが、結局ルパンはいつも一人になった。

少なからず、今までの相棒は男女関わらず、あんな地味な人間じゃなかったことは確かだ。
派手好きの人間は、やはり派手な人間を身の回りに置く。

それがあんなパッとしないガンマンが、何故ルパンを「俺の相棒」と言わしめるにいたったのか。

ルパンに対する謎がまた増える。
そのことに、口の端が丸く歪んだ。


****4****

「何で私がこんなことしなくちゃいけないのよ」
小型ヘリを操縦しながら、警察のヘリをまくために高度を上げた。
ルパンが私に頼みたいことがあるというから、不可能を承知で「明日の夜までK国の王室にある宝石でできた虹色の薔薇が欲しい」と言ったのに、ルパンは翌朝には様々な宝石を削って造った虹色の薔薇を渡してきた。
お願いは盗みの時にヘリで迎えに来て欲しい、そして適当な所で降ろしてくれとのことだった。

そのこと自体は些細なことだし、狙うお宝も私に光をもたらさないただの黒い石と知ったら横取りする気も失せた。
なんでそんなものを捕りにいくのと聞いたら、約束なんだよとルパンは微笑んだ。
他の女の手助けならごめんよ、と返したら、女じゃなく男だよ、浮気じゃないよと猫なで声で擦り寄ってきたから、ヒールで足を踏んづけた。

実際、ヘリでルパンを釣り上げたら付いてきたのは女じゃなくて、いつか見た真っ黒な男だった。
ヘリの荷台に乗ってからも、わぁわぁ何かを言い合ってだけど、ルパンは楽しげだった。

あんな地味な男、ルパンの好みじゃないことは確かなのに。
どこを気に入ったのか私にはまったく分からなかった。

アレかしら、派手にやってた男ほど、最後は物静かで地味~な女で落ち着く法則。
そう考えると、男相手でも腹が立つ。

でもあんな男に嫉妬するなんで、馬鹿らしくて逆に呆れの方が大きかった。
「あ、不二子ちゃん。ここで降ろして~」
「ルパン、あなた後悔するわよ」
ポチ、とボタンを押せば、ヘリの底が割れた。
情けない叫び声が2つ、東京の夜に堕ちていく。

ルパンは私のものよ、と速度を上げた。


[newpage]

**2**

クラン、と球体の氷がグラスに擦れる。
俺は木彫の落ち着いた背の低めなカウンターと、薄紫の一人掛けの椅子に座っていた。
コースターには、ラジオクラブという名前が印刷されている。

「どーしたの次元ちゃん、バーボンはお嫌い?」
隣の男が俺の顔を覗き込む。
「…いや、バーボンは好きだ」
結局、俺は赤いジャケットの男と一杯付き合うことにした。
だが、話すことが分からない。
盗んでくれてありがとうとでも、そんな矛盾を吐けばいいのか。

俺はまだ、心臓が暴れていた。
あんな派手に仕事をしたのは久しぶりで、ましてや自分の欲望の為に銃を撃ったことが久しぶりだった。
落ち着かない。
なんだか、全身がこそばゆい感じがする。
鎮静剤の煙草をポケットから探し、机に置く。
すると一緒に、湊から渡された小切手が一緒に出てきた。

「ん」
くしゃくしゃになったそれを、男に差し出す。
「なーに、コレ」
「いくらまで出るかは分からんが、使え」
広げてようやくその紙の意味を知る。
「んふ、生憎、金には困ってない」
「おい」
カチ、とジッポから炎が飛び出し、紙を炭素に還す。
ぽいと空の灰皿に捨てられ、微かな墨だけが残る。

「火をつけるなら、やっぱりこれだな」
男が言いながら、俺の煙草を一つ奪う。
「ポールモールは薄味だな」
奴の手元には、青い踊る女のパッケージに包まれた煙草がある。
ジタンか、今まで一度も吸ったことのない煙草だった。

「俺はそれが好きなんだ」
濃い味は、苦手だ。
「んふ、覚えておくさ」
ふう、と男の唇から煙がでる。
バーのセピアの光のせいか、俺の吐く煙とは違う。
男が、顔を俺に向ける。
視線から逃げるように、バーボンを煽った。
「次元、俺はお前が欲しい。フリーの用心棒なんか辞めて、俺のところへ来い」
「……気が向いたらな」
「あ、そーやって誤魔化すのはナシでしょ~」
男がにへらと笑い、俺の顔をまた覗く。
バーは、俺たちの他に客はいない。バーテンダーも、最初のこの一杯を出してすぐ裏へと引っ込んでしまった。
ジャズの気ままなピアノの旋律を追いかける以外、逃げ場がない。

「俺は、誰かとつるむ気はない」
「ふ、貞淑でいたいの?」
「…からかうな」
肘をついて、下から俺を覗き込む。
この男の、黒のようで、茶色のようで、灰色のようなよく分からない瞳を見るのは苦手だ。
帽子を前に傾け、ちびちびとバーボンを飲む。

「今の生活なんかより、想像できないくらい楽しいぜ、俺の世界は」
「お前の世界はな」

確かに、こいつとの仕事の方が、用心棒をやっているよりもよっぽど楽しいかもしれない。
俺だって、人を殺す喜びなんかない。だが俺の力は、人殺ししかできない。
それを否定する仕事があることは、俺にとってはこの輪廻から脱出するラストチャンスだろう。
この男も、信用はならないが、根が腐った男ではない。
だが、疑問に思う。何故こんな男が、俺に近寄ってきたのか。

「お前こそ」
「俺こそ、何?」
「俺なんかとつるんでどうする。タイプが違い過ぎるだろ、俺とお前じゃ」
喧しい男と、寡黙な男。
この2人が相容れることは、不可能だ。

俺の言葉を、男はクスリと笑う。
「タイプが違うからこそ、惹かれ合うってのもあるぜ」
女でも口説いているような口調を、嘲笑う。
「生憎、俺はそう思わない。悪いが、俺はお前の仲間なんかにはならない」
「…金もいらない、仲間もいらない、人生のやりがいさえいらない?」
男の赤い腕が俺に伸びる。
触るな、と手を振った。
「無欲なふりして、一番贅沢なものが欲しいんじゃない?」
「なんだと?」
男が手首を回すと、そこには最初にこの男から貰ったルビーがあった。
あのルビーは結局売ることもできず、酒場の女にやってしまった。
マフラーも、湊にアジトに置いてきてしまった。
「次元ちゃん、酷いよな。俺のあげたプレゼント、全部捨てただろ」
「…泥棒から貰ったものなんざ、危なくて持ってちゃいらんねぇよ」
男が袖を擦れば、袖口からあのマフラーがずるずると出てくる。
それをルビーと合わせて手の内に丸め込んで、ぎゅうぎゅうと握り込むと、血のように赤い薔薇が男の掌から湧いてきた。
「じゃあ、これならいいでショ?」
男が俺に薔薇をかける。
俺は一瞬男が消えるのかと思って、指先が動いてしまった。
薔薇まみれになって、男の多彩な目を見る。
どこか黒いものが見える。同時に輝くものが、反射しあっている。その瞳の奥は、俺には見えない。
ただただ、不安になる。
「やめろ、俺まで手品で何かに変える気か」
この男にされるままにされたら、俺は赤い何かにされてしまいそうだった。
薔薇を払い、花弁は地に落とす。
「そうだな、赤いドレスのお人形にしてあげるよ」
「やめろ」
また伸びてきた手を叩く。
「はは、次元ちゃんって、ほんとガード堅いな」
「…男にガード薄いやつなんか、気色悪いだけだ」
「愛嬌、てのはあるべきだと思うがな」
「ふん」
薔薇の入ったバーボンを飲めば、唇がくすぐったくなる。

「これは、どうする?せっかく盗んだのに、本当にいらないのか?」
男が懐から薄青のリングケースを取り出し、自分のグラスの横に置いた。
指で俺の方へ引き寄せると、ケースの柔らかな肌触りの余韻が指先に残る。
「開けるか」
「いいや、このダイヤは太陽の下以外じゃ輝かない」
真っ暗闇は嫌だ、とケースを押し返した。

「不運なダイヤモンドだな」
リングケースを手の中で弄びながら、赤いジャケットの男は俺を見た。
黒い瞳に俺が映り、俺はその瞳の中に閉じ込められたまま動かなかった。
その瞳の中の俺こそ、本当の俺なんじゃないかと思うほど、その瞳に俺が居る。

「自分一人じゃ輝くこともできない、価値は確かにあるのに」
「それどころか、周囲の光まで奪っちまう」
「太陽という、ヒトの知る限り、もっとも偉大な光の下以外では、輝けない」

「…それがどうかしたか」
「いや、誰かさんに似てると思ってな?」

そこまで言われて、ようやく気付かされた。
こいつが何を言いたいかを。
いや、むしろ俺がこのダイヤを欲しがった理由を。

「…そんなダイヤ、海にでも捨てちまえ。あったって誰も得しない」
「いいじゃねぇか、俺は好きだぜ、このダイヤ」

男がリングケースを開くと、一瞬で辺りが真っ暗になった。
つけた煙草の光さえ、まるで見えない。
ただジャズの音だけがその世界にあった。

「この通り、このダイヤには太陽が必要だ」
「…そうだな」

俺は欲したのだろうか。
こんなふうに他者から光を奪う自分を、もっとも輝く太陽の下に照らす為に。

「もう、そいつをしまってくれ。何も見えやしない」

俺は孤独だ。
孤独でないことが、俺にとっての異常なくらいだ。
誰かと一緒になりたいと、願ったことはある。
しかし叶わぬ夢を夢見ることは、とうの昔に止めた。

パタ、とリングケースが閉じられた。
光が戻り、バーの淡い光でさえ眩しい。
帽子を深く傾け、グラスの中の氷塊を見つめる。

だが、心の底では待っていたのかもしれない。
唯一俺を照らしてくれる、太陽を。
俺を暗闇から引き揚げる程の、強い光を。

「もう見えるだろう」

それがこの男かどうかは、俺にはまだ分からない。

赤い裾に包まれた腕が俺に伸び、男っぽい毛深い手が俺に近づく。

「次元」

その指先が肌に触れる直前、俺は夏の匂いを感じていた。





Incomplete story to be continued